非人間中心主義とアート特集(「美術手帖」33ページより)
参照:http://imi-shin.com/special/23/ ピーター・ユイグ作「ソトタマシイ」2017年
人新世とは何か?
そもそも人新世とは、地質学の年代区分を表す言葉であり、それは現代という時代が、人間の力によって、この地球環境の変化、またはその崩壊を人間自身が止められない時代区分のことを指し、それは1950年以降の急速な地球規模の資本主義社会の進展によって、人類の活動自体が、地質学的視点から見て、地球環境に深刻な影響を及ぼすようになってから始まり、現代に至るものとされている。例えるならば、それは核兵器であったり、原発であったりする。それは(非聖書的な教えによるならば)人類亡き後も、それらのものは、地層にその傷跡を長期に渡って残すものとなることから、地層に関係があるわけである。英語でAnthropocene(アントロポセン)という。
それによって、これまでの人間中心主義的な生き方は反省を強いられることになり、人間と自然、または地球環境という、それまでのような人間存在を主体とした序列関係的な二元構図から、人間と自然、また人間と非人間的なるものとが「同格の主体」となり、その視点によって、人間の脱主体化を目指すものを言う。
このような世界観においては、人新世の時代が去った先も、つまり人類が環境の変化と崩壊によって仮に滅んだとしても、地球はそのまま新しい地質区分として、新たな主体によって生き続けるものとする。
この時点で、そもそもこの思想がダーウィニズム的であり、あくまで「無神論的な地球環境」を基点とした被造物完結主義的思想である以上、それは創造主の存在の「欠如」によって成り立っている思想であることを忘れてはならない。
人新世というキーワードによって、哲学などの人文学で問われていることは、人間が日常的に生きている(あくまで相対的な存在である人間によって想定されている)この世界の時空とは離れたところにある(と仮定している)「非人間的時空」の世界観とは、一体いかなるものであるか、という問いである。
人新世的思考によれば、人は2つの世界で生きている。それは(この世にとっての)日常という、これまで展開されてきたような(神なき)人間中心主義的世界観と(その境界の向こう側にあると仮定されている人間の相対性や合理性を超えた)非人間的世界観の2つの世界観であり、その2つの世界の関係性の中から、その境界線を超えた、これまでにない新たな世界観を提示することが、人新世のアートらしい。
それは狭義の意味において、主体の同格性という規定の元に、自然と人間だけの問題ではなくて、AIと人間、またロボットと人間など、あらゆる意味における「人間と非人間」の関係性を表すものとも理解することができるだろう。その関係性の中から、人間的なものからの境界線を超えた世界を提示することが求められているらしい。
しかしその本質は、現代が終末時代であるように、これまで私たちが当たり前として生きてきた人間世界の崩壊を予兆するような、様々な世界の出来事がある中で(人間世界の神なき日常という)壊れる前には考えたこともなかった、その境界の向こう側の世界を、考えざるを得なくなってきたことから生み出された思想であり、そういうアートということらしい。。。
[ 美術手帳2020年6月号:86ページより/作品名:OR]
つまりそれは2013年に「エデンを越えて」の解説の中で私が語っていることと同じことなのである。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11章13節から16節)
そういう意味では、キリスト者はもとより、人が本来帰るべき場所である”HOME”としての天の御国に、その国籍が移されており、その意味において、この地上においては私たちは旅人であり寄留者であることから、この地上生活における日常がすでに、境界線のこちら側と向こう側の「間」で生きている存在であると言えるだろう。
また、いつも言っていることであるが、もはや311後の時代は「神なしには語れない世界」になったのだ!!つまり、この時代の時代精神が求めている真の非人間的なる存在とは何かといえば、結局それは究極的には、創造主なる神のことなのだ。そして人は本来、自らの相対的限界を超えた存在である「神」との「交わり」を求めている存在なのだ。(なぜなら人は生まれながらにして永遠を求める存在だからである)
以下のリンクで美術批評家のニコラ・ブリオーが、「新しい関係性の美学」として、人新世におけるこれからのアートのテーマとして、これまでのような人間と人間の関係性ではなく、人間と非人間との関係性の提示を行なっているが、人新世のアートにおいては、あらゆるオブジェクト(メディウム)が、外的存在者(非人間)との関係に向けて自らを「提示」する立場を取るべきであると述べているが、そもそも私たちが行なっている「キリスト教アート」は、すべてのものが、人と人との関係性だけで留まるのではなく、それは人と神(究極的な意味における非人間的対象として)との関係性をベースとして展開されている点において、まさしく「人新世」であり、その意味において、同時代の精神が本当の意味において求めている答えであると確信するものである。
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