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アートについて

更新日:1月13日


私はアートが好きである、そしてその歴史が好きである。なぜならアートの歴史を見た時に、それはどの時代においても、既存の社会が作り出す美と価値観に対して、本当の美とは何か?その表現とは何か?そんな永遠のテーマを志向する稀代のアーティストたちによる魂の戦いのドラマが、そこにはあるからである。



アーティストたちはその革新的な創造力によって、それまでにはない新たな美や価値観を生み出し、新しい世界の表現のために己の魂を削ってきた。そこには決して飽くことのない美への探究心と、時代を捉える嗅覚、そして時代の常識を引っくり返すクリエイティビティがあった。



だからアートの歴史を見た時に、アートとは、各時代の文化や思想や生活や社会背景などを元に、アーティストたちが自らの芸術言語を用いて表現した魂の叫びであり、その表現は、各時代のアーティストたちによる革新的な想像力とそのワザによって、さらなる新たな美の表現へと向かって刷新されてゆく。


そしてその多くはキリスト教美術の歴史でもある。太古に遡って、原始美術、エジプト・メソポタミア美術、ギリシャ美術、ローマ美術と来て、初期キリスト教美術が始まってからは、近代に至るまで、西洋美術の歴史の多くはキリスト教美術の歴史でもあった。


まずはその初期キリスト教美術の時代、2世紀から4世紀にかけて、カタコンベと呼ばれる壁画が各地で盛んに作られた。


カタコンベ(3世紀)


それはローマ帝国からの厳しい迫害の中にあって、死後の魂の救いを確信するクリスチャンたちが、お互いを励ますために、弾圧者の目を避けて、主に地下の墓所や隠れた場所に壁画や天井画として描いた聖画である。


その特徴としては弾圧者の目をごまかすために、暗号や異教の美術モチーフなど、間接的な表現を用いて描かれている点にあり、そのことからも当時の迫害の厳しさが窺える。例えば絵の中で両手を上に挙げているポーズがあるのだが、それは「オランス」と呼ばれるポーズで、魂の救いを意味している。(意味はラテン語の「祈り=oratio(オラショ)」から来ているとのこと)


「善き羊飼」(3世紀)

またよく描かれているモチーフとして、善き羊飼いがあるのだが、イエスさまの肌の色が、中世ヨーロッパのカソリックの教会美術の作品と比べると、茶褐色であることが分かる。それも初期キリスト教美術ならではであるし、また「オランス」というサインからも、アートというものが、そもそも人に何かを伝えるために創作されているものであるということに、改めて気が付かされる。

その後、キリスト教がローマの国教となり、カソリック教会が設立されてから、中世など、近代以前の美術作品は、当時の権力者たちが民を統率するにあたって、民の識字率の低さや教育的観点から、大聖堂や絵画や彫刻など、美術は聖書の物語を表現するためのツールとして作られ、そして用いられて来た。またそれは同時に、権力者自らの力の表現でもあった。



当時のアーティストたちは、このように時代の権力者たちのもとで、聖書の物語をモチーフとした作品を数多く作成した。この初期キリスト教美術から中世ヨーロッパの教会美術全般を、人間的個性の乏しい宗教時代のアートとして、暗黒時代などという呼び名で安易に整理するきらいがあるが、イエスさまは勿論のこと、12弟子や母マリヤや天使など、その時代のアーティストたちが自らの創造力によって、聖書の物語を目に見える形として表現していたことを考えると、非常に独創的かつユニークなことではないだろうか。


もちろん当時の正教会に見られるイコン(聖人画)の作品に見るように、4世紀から始まるビザンティン美術は、宗教美術としての表現方法を厳しく統制されていたため、人物の向きや持ち物、服装に至るまで、それらは全て厳格に決められていた。それは旧約聖書のモーセの十戒に書かれているように、見る者がそれを偶像として礼拝することを避けるためであった。


          「ウラジミールの生神女」←聖母マリアのこと

         「全能者ハリストス」←キリストのこと(12世記)

それを語るには、少し歴史を遡って見る必要がある。エジプト・メソポタミア文化から始まる彫刻美術や壁画の歴史は、基本神々を表現する偶像が主流であり、それらは基本2本足立像であるが、主に人間ではない何か異形のものとして造られていた。


            「礼拝者の像」(紀元前2600年)

      大きく見開いた目は「魂の窓」と呼ばれ、神が宿ると信じられていた

            「バーニーの浮像」(紀元前1800年)

             「死者の書」(紀元前50年頃)


それがギリシャ文化になると、それらはギリシャ神話の神々を表現するものとなり、神々の表現である以上、人間の理想的な肉体をもって創作された。それゆえギリシャの神々の彫刻は、まるで生きているかのようにリアルに肉体美が表現された。聖書の中で、アテネの街が偶像でいっぱいだったと言っているが、まさにその通りであった。


           アルテミシオンのゼウス(紀元前460年)


              ラオコーン(紀元前140年)


          パルテノン神殿の女神たち(紀元前500年)


それがローマ文化になると、今度は神々の像から権力者の像が主に作られるようになってゆき、それもまた偶像の対象として造られていった。


         プリマポルタのアウグストゥス立像(紀元前28年以降)


                  カエサル立像


そういった偶像創作の歴史の流れの中にあって、人間をリアルに理想的に再現するといった行為自身が、偶像礼拝へとつながるという懸念から、4世紀からの初期キリスト教美術では、イコンのように、その表現方法を厳しく規制した。

しかし問題は、聖画を描いたり聖像を作ることにあるのではなく、それらを偶像礼拝の目的として作ること、または礼拝の対象として崇拝してしまうことなのである。

そのため当初、イコンも崇拝対象ではなく、崇敬対象として、偶像ではないとしていたものの、それも時代と共に偶像化してゆき、カソリック教会は堕落して行った。大事なことは目に見えない真の神への信仰であり、それを伝えることなのである。その結果、時代は後にプロテスタント教会を生み出すこととなってゆく。

そのため、初期キリスト教美術の作品には、作家の個性やオリジナリティこそ制限されていたが、そこで現れたのが、アンドレイ・ルブリョフである。特に彼が描いた下の「至聖三者」のイコンは、アブラハムを三天使が訪れた様を描いたものであるが、これは同時に、神、御子、聖霊の三位一体を暗に表しているとも言われ、その意味において、この作品は、それまでにない新たなキリスト教美術の世界を表現したものと言えるだろう。


          アンドレイ・ルビリョフ「至聖三者」(15世紀)


またこの時代には、フレスコ画やモザイク画など、新たな美の表現方法が生まれた。このことから人の持つ創造性に制限をかけることの難しさを思う。なぜなら人は、神というこの宇宙全体を造られた、オリジナルアーティストである方に似た者として造られている存在であり、ヨーゼフ・ボイスの言葉を借りるまでもなく、創造主なる神にあって、すべての人はアーティストだからである。

さて、ビザンティン美術の時代も終わり、14世紀前後になると、ルネサンス美術の先駆者とも言えるイタリヤの画家ジョットによって、それまでのキリスト教美術にはない新たな試みが行われた。それは、それまでの型にはめられた宗教画ではなく、その中に自然の佇まいや人の表情、衣服のニュアンスなど、伝統的な宗教美術によって制限されていた慣習を打ち破り、実物の人間性をリアルに表現した。それは新たな美の表現であった。


            ジョット「ユダの接吻」(1306年)


            ジョット「荘厳の聖母」(1310年)


その後、ルネサンスの時代、それまでの中世キリスト教の美術様式から、かつてのギリシャ・ローマ時代の文化や美術様式が見直され、中世以降、聖書の神の存在が世界の中心であった物の見方から、人間存在とその視点を中心とした物の見方が見直され、遠近法や陰影法、また解剖学の知識などを、アーティストたちは自らの絵や彫刻に取り込むことによって、中世キリスト教美術に見るような表情の乏しいリアリティの欠ける人間像から、人間の尊厳に基づいた、もっとリアルな人間像、かつてのギリシャ・ローマ時代を思わせるような作品群が造られていった。またこの時代から油絵具が使えるようになったことによって、より写実的な表現が可能になった。この時代の代表的なアーティストとしては、ミケランジェロ、ラファエロ、ダヴィンチなど、いわゆる美の巨匠たちの時代である。


           ミケランジェロ「ダビデ像」(1504年)


           ラファエロ「シストの聖母」(1514年)


           ダ・ヴィンチ「モナ・リザ」(1506年)


           ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」(1498年)


このルネサンスは、場合によって、神と人との二項対立の考え方をベースに、暗黒時代からの夜明け、この世的な意味における人間性の回復と言った非キリスト教的な観点から「ビィーナスの誕生」のように、キリスト教以外のモティーフも描かれるようになったことから、ある種の背神思想として語られることも多いが、それは決して背神思想などではなく、文化や文明の発達による、神の御前における人間の自由と個性の回復と言った方が正しいだろう。なぜならそれによって神の創造物としての人間が、また神の創造物である自然が、よりリアルに描かれるようになっていったからである。


        ボッティチェッリ「ビィーナスの誕生」(1483年)


その後、ルネサンスの時代も終わりを迎えた1500年代、それまで宗教美術に依存してきたことによって民の間では公然と偶像礼拝が行われ、それによって信徒を掌握してきたカソリック教会では、残念なことに聖書の本質から離れ、免罪符に代表されるような逸脱行為が平然と行われるようになってしまった。それを踏まえ、聖書信仰に立ち返らなければならないとして、マルティン・ルターによって宗教改革が起きた。1517年のことである。


                 マルティン・ルター


プロテスタント教会では、聖書を絶対的な権威とし、民が聖書の御言葉に立ち帰ることを念頭に、これまでのカソリックのやり方を否定するとともに、それらの宗教美術も偶像礼拝の対象として、これを否定した。それはまた、教皇に対してルターが反旗を翻したことによって、多くの抑圧されている民衆たちもまた立ち上がり、既成の教会制度への反対運動として、カソリックの宗教美術を忌むべき偶像として破壊する運動が起こった。

これらプロテスタントの運動に対し、民の信頼を失ったカソリック教会では、信徒を呼び戻すために、さらに感情的、さらに劇的な「目で見る聖書」の表現に力を入れることで、信者の宗教心に訴えかけようとした。ベラスケス、カラヴァッジョ、ルーベンスなど、この時代、人の心に訴えかけるような美しくも激しい宗教画がたくさん描かれた。バロック美術である。このバロック美術の見所は、先のルネサンス期や、これに続く19〜20世紀の美術のように、ある意味、革命期とも言えるような新たな美の追求とその発見にあるのではなくて、成熟した美の姿がそこにあることである。だからこのバロック期における美術は、とにかく美しいのである。


       ベラスケス「十字架に吊るされたキリスト」(1632年)


        カラヴァッジョ「ダマスカスへの途中での回心」(1601年)


            ルーベンス「幼児虐殺」(1611年)


それに対し、プロテスタント国であったオランダでは、教会美術としての宗教画が禁じられていたために、既存の多くの宗教画はほとんど破壊された。その動乱の中でレンブラントは「放蕩息子の帰還」を描いた。父親の愛に向き合うことなく、罪深い放蕩の旅路から帰ってきたその息子を迎え、しっかりと両手で抱くその父親の姿は、まさに天の父なる神の愛を表しているものである。この作品はキリスト教絵画の中でも最も素晴らしい絵画であると、私は思っている。


          レンブラント「放蕩息子の帰還」(1668年)


このように、プロテスタント教会では、カソリック教会の反省から、絵画や彫刻など偶像礼拝の恐れのあるものは徹底的に排斥していった。そのためプロテスタント教会では、これ以降音楽やダンスなど非造形芸術を中心として後の世代に継承されるようになり、その流れは現在に至っている。つまり宗教改革から約500年、それら造形芸術としてのキリスト教美術は、主にカソリック教会によって継承されることとなり、プロテスタント教会はその大事な遺産を継承してこなかった。真に残念なことである。しかし一度聖書信仰に立ち返ったからこそ、今その復権が求められているというのが、後に展開する私の持論である。

その後16世紀から17世紀にかけて、絵画などの美術品は裕福な貴族を中心として、鑑賞、売買されるようになり、貴族社会を描いたものや、個人の肖像画などがたくさん描かれた。同時に、美術のテーマも文学や思想、社会体制への反発、神秘的なもの、恋愛に関してなど、その取り扱う世界も広がっていった。代表的な作品では、以下のようなものがある。


          フランスの7月革命をテーマにして描かれた

         ドラクロワ「民衆を導く自由の女神」(1830年)


        農民の悲惨な生活に対するレジスタンスとして描かれた

             ミレー「種まく人」(1850年)


                貴族の恋愛模様を描いた

            フラゴナール「ブランコ」(1768年)


そして時代は近代になり、時代は王政や貴族の時代から、市民の時代へと移行してゆく。産業革命が起こり、社会が大きく変化してゆく中で、技術革新として「絵具チューブ」が発明され、絵具が携帯できるようになった。1870年代のことである。下はマネの作品で「アトリエ舟で描くモネ」(1874年)である。これもまた絵具の携帯化によって可能になったモネの日常の一コマを描いたものである。


           マネ「モネのアトリエ舟」(1874年)


これによって画家たちの活動の場は宮廷やアトリエから外の世界へと広がり、表現の内容もこれまでのように宗教画や貴族の肖像画が中心ではなく、外の世界、つまり自然描写や市民の日常生活など、それまで以上に、外の世界の様々なものが、自由に描かれるようになっていった。それによって美術が外の世界、特に市民社会に対して、より開かれていった。


          カイユボット「パリの通り、雨」(1877年)


          歌川広重「大はしあたけの夕立」(作成年不明)


上の絵は2枚とも雨の街と橋を描いたものである。この絵、2枚とも雨を描いたものであるものであるが、カイユボットのそれは傘はあっても雨は描かれていない。それに対して広重のそれは複雑な線によって雨が描かれている。しかしどちらも雨を感じる作品である。アーティストによって描かれ方が違うのもまた、アートの面白さである。

そして時代は、同時期に発明された写真技術の発達によって、絵画表現はそれまでのリアルでより写実的なものから、作家の個性やその内面を表現するものへと変化していった。なぜならいくら写実的にリアルな絵を描いても、写真には敵わない時代となったからである。この写真機の発明によって、美術世界は写実主義から抽象主義へ、絵画から後にコンセプチュアルアートへと移行してゆくことになる。この出来事は、アーティストにとっても、それまでにない新たな美の表現へと向けて、大きな分岐点となった。


         ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明された

     ダゲレオタイプ法によって撮影された彼のアトリエの写真(1837年)

そういった産業革命の変化の中で、モネ、ルノワールなどの印象派のアーティストたちは、それまでの「貴族社会が作り上げた閉鎖的な芸術サロン」に意を唱え、絵具チューブを携え、外に出て、自然や市民社会を自由に描き始めた。


           モネ「散歩、日傘をさす女性」(1875年) 


      ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876年)


それによって、それまでのように室内で作成していた時と違い、彼らはその目で見た「陽の光の輝きやその変化」の感動を、自らの絵に表現していった。

彼らは光を表現するために、色は混ぜると色彩が暗くなることから、なるべく原色をそのまま用いるかたちで、それまでの美術の常識であった作品に筆跡を残さないというルールを破って、細かい筆致で様々な色を画板に並べる筆触分割という技法や、それまでのようにただ対象を写実的に忠実に描くのではなく、陽の光の下でその対象を見た時の「印象」、つまり作家が主観的に見て感じた美しさ、その世界を描くという「新たな美の世界」を表現した。印象派である。

更に時代は蒸気機関車の発明と交通網の発展により、アーティストたちはより自分たちが望む風景、都市、自然を選んで移動し、描けるようにもなった。つまり絵を描くということが、より物理的に自由なものになっていったのである。


            モネ(「サン・ラザール駅」1877年)


その中で、後期印象派であるセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホといった作家たちは、さらに自らの個性とその世界を大胆に表現してゆく。


         セザンヌ「サント・ヴィクトワール山」(1887年)


           セザンヌ「果物籠のある静物」(1890年)


セザンヌはルネサンス期より続く伝統的な絵画の常識であった遠近法を崩し、複数の視点を作品に盛り込むことで、事物の存在をよりリアルに迫りくるように表現した。上の静物画も、机の両端がズレているし、果物カゴは通常視点であっても、壺は上からの視点として描いている。そして山や家や壺やリンゴなどの対象物を、円筒形や球体や円錐のような幾何学的な形の集合体としてとらえ、それを配置することで独特の美の世界を表現した。そしてこのスタイルは、ピカソなど後のキュビズム作家へと受け継がれてゆくことになる。


  ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

                               (1898年)


ゴーギャンは、上の絵のように、タヒチの女性や、その生活風景を描くことで有名であるが、彼はタヒチの絵だけではなく「説教の後の幻影」や「黄色いキリスト」など、キリスト教をモチーフとした作品もいくつか描いている。しかしそれらの作品は、感情やリアリティに乏しく、彼の情熱を感じるものではないが、ゴーギャンは、その異世界への理想と神秘、また自らの魂の救いをタヒチという当時フランスの植民地であった未開の異文化に求め、そこで多くの時間を費やし、作品を描いていった。現地の伝統や宗教、また現地の女性に感化され、事実彼は何度もタヒチ人の妻を変えながら、そこに自らの理想とする人為的な楽園を求めるが、結局最後には、彼の集大成である「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」の絵にあるように、人が生まれ死んでゆく姿を描きながらも、彼は自らが求める真の答えを得ることなく、最後は一人も看取る者もない場所で孤独のうちに亡くなっていった。


             ゴッホ「自画像」(1887年)


それに対し、一時はゴーギャンと生活を共にしていたゴッホは、父親が牧師であり、彼自身も幼い頃からクリスチャンとして育った。彼は画家になる前は、神学校にも通っていて、その後伝道者として、炭鉱で働く貧しい人たちのために、身銭を切って伝道をした。ボロボロの家に住んで、衣服もお金も食べ物も、全て貧しい人たちに分け与えながら、非常にストイックに、命がけで福音を述べ伝えていた。ある時に炭鉱で爆発事故があった時も、またチフスのような伝染病が流行った時も、ゴッホは第一線で人々を助け、その対応にあたった。実際、多くの人が彼を通してキリストと出会ったのだが、その型破りで極端な性格から、ドイツの伝道委員会から良識と精神の均衡が欠けているとして伝道者としての職務を解任された。



しかしその後、鉱夫たちをデッサンし続けてゆく中で、彼は巡りめぐって画家になった。

10年という短い画家人生だったが、彼は自分の表現に命をかけていた。それゆえ今でも、多くの人が彼の絵とその生き様に感動を覚え、生前は一枚の絵しか売れなかった貧しい絵描きであったが、今では世界中の人々を魅了し、美術界において屈指の人気を誇っている。


            ゴッホ「善きサマリヤ人」(1890年)


             ゴッホ「種まく人」(1888年)


また、彼のその生き様は、ゴッホの情熱的な厚塗りの絵にも表現されている。彼の作品である「善きサマリヤ人」や、「種まく人」、また彼の象徴的表現である「太陽」も、ゴッホの内側の宗教性や信仰を表している。ゴッホにおいて、キリスト教美術は一つの到達点に至ったと言っても過言ではないだろう。

そして時代は20世紀に入り、美術の歴史は、新たな美や価値観を創造するアーティストたちによって、さらに大胆に刷新されてゆく。

アンリ・マティス。彼はピカソやデュシャンと合わせて、20世期を代表するアーティストのうちの一人である。色彩の革命家とも呼ばれるが、その絵からも分かるように、これまでの西洋絵画の歴史の中で、ここまで大胆に「色の冒険」をしたアーティスは、かつていなかったであろう。


        マティス「緑の筋のあるマティス夫人の肖像」(1905年)


マティスは、その作品が表しているように、目で見た世界としての色ではなく、彼自身が主観的に感じたままの色を使って絵を描いた。伝統に縛られない色彩の自立、また画家の感情が強烈な色彩となって作品に表現されている。そのことからマティスはフォーヴィズム(野獣派)と呼ばれた。

そしてマティスはこの「緑の筋のあるマティス夫人の肖像」によって、「目に見えるとおりに世界を描く」という、これまでの写実主義的美術観からアートの世界を開放した。下の「赤のハーモニー」はマティスの最高傑作と言われているが、この鮮烈な色彩感こそがマティスなのである。


           マティス「赤のハーモニー」(1908年)


パブロ・ピカソはギネスブックに載るほどの多作の画家である。彼の作風はセザンヌの影響から、ルネサンスより続く伝統的な西洋美術の手法である、一つの決まった視点から遠近法的に物を描くそれまでの常識に疑問を持った。なぜならサイコロを描く時に視点が一つでは見える側面と見えない側面があるように、視点が一つでは表現出来る世界に限界がある。だからあらゆる角度から見た複数の視点のイメージを持って対象をとらえ、それを絵画という平面世界に落とし込むために、それらのイメージを円形や三角形などの幾何学的な形に一度変換し、それを一つの画面に貼り付けて再統合するという特殊な描き方をした。そういった前衛的な手法によって描いたのが下の「アビニヨンの娘たち」という作品だった。これはキュビズムと呼ばれる手法で、日本語訳だと「立体主義」と言われるが、これまでの写実絵画では表現できなかった対象のリアルな側面を、ユニークかつダイナミックに表現した。


          ピカソ「アビニヨンの娘たち」(1907年)


「ゲルニカ」もそうであるが、ピカソの作品には、写実的な美しさこそ乏しいが、一度見たら目に焼き付いて離れない不思議な魅力がある。このようにピカソの作品世界においては、現実をそのまま描くのではなく、逆に現実とかけ離れているからこそ、そのギャップの分だけ、鑑賞者側が頭と心を能動的に動かしてその作品を理解し、味わおうとする。ここにそれまでの写実主義から抽象主義、そしてコンセプチュアルアートへと向かう流れがある。


             ピカソ「ゲルニカ」(1937年)


そしてカンディンスキーの登場によって、抽象主義の流れは具体的な対象を描かないという境地にまで至った。カンディンスキーは幼少の頃から音楽に慣れ親しんで育った経緯もあって、絵画表現においても、客観的な対象を描くよりも、色彩の響きを通して、彼自身の内面の精神性を表現することを追求した。そしてその色彩の美しさは人の心にハーモニーとしての共鳴を起こすと信じていた。だから彼の作品は音楽的な感覚的美しさがあり、その激しい色彩から「熱い抽象主義者」と呼ばれている。



         カンディンスキー「コンポジションⅦ」(1913年)


熱い抽象主義者のカンディンスキーに対して、「冷たい抽象主義者」と呼ばれるのが、モンドリアンである。彼はパリでピカソたちキュビズムの作品に感銘を受け、抽象主義の研究に没頭し、その結果、絵画で宇宙の調和と均衡を表現しようとした。そしてそのために、ありとあらゆる具象を越えた完全なる抽象性が必要であるという結論に達し、絵画の中から色の三原色である赤青黄、そして白黒だけを用い、また線も直線だけで、曲線などを全て排除して、抽象主義を極めることで、その向こう側にある美を表現しようとした。


       モンドリアン「赤・青・黄のコンポジション」(1930年)


そして抽象主義の流れは、マレーヴィチの無対象芸術に見るように、もはや見ている対象すら描かない極端な抽象主義や、シュールレアリズムに見るような無意識による美の表現という新たな表現世界へと至るが、それらの作品はある意味で革新的ではあっても、同時に絵画芸術のひとつの限界点を示唆していたと思われる。


           マレーヴィチ「黒い四角」(1915年)


             ダリ「記憶の固執」(1931年)


そんな歴史の流れの中で、第一次世界大戦が始まり、その動乱の中で、芸術の舞台はヨーロッパからアメリカへと移る。それに伴いデュシャンの「泉」を大きな分岐点として、美術はそれまでのように視覚的に美しく、作家個人の固有の美の表現をするためのツールとしてではなく、新しい価値観、新しい美を表現するためのツールへと変化していった。それがデュシャンが提唱する「概念(美)のアート」(コンセプチュアルアート)である。


           マルセル・デュシャン「泉」(1917年)


そのきっかけはデュシャンが友人たちと共に飛行機展に出かけた時、当時の科学技術の代名詞でもある飛行機のエンジンとプロペラのフォルムの美しさとその機能性を前に、同時代の美術がこの飛行機のプロペラの美しさを超えることができるのかと、その限界を感じたことがきっかけであった。



だからデュシャンは当時の美術界に対して目で見る視覚芸術の限界を超える必要性を示すために、あえて視覚的な美から最も遠く離れていると思われる「便器」を展示会の作品として持ってきた。それは既存の美術界が作り上げて来た視覚中心という固定観念を破壊するためだった。



しかもそれまでの美術の伝統であった、作品は作者の手によって作られるものであるという常識を破って、あえて大量生産されている既製品(レディメイド)を持って来たから更に驚いた。


しかもそれは美術展に持って来た段階で、すでに便器としての本来の機能を失った、ただのモノであることから、機能性を失った科学技術とは、それが便器であろうがプロペラであろうが、ただのモノでしかないことを示すことによって、デュシャンは美術と科学技術の両方に対するアンチテーゼを示したのである。

そしてそれらに代わる道として、これからの美術は、目で見る視覚的美しさをに追い求めるのものではなくて、思考で味わうもの、つまり概念の美しさを追い求めるべきものであるとして、新しいアートのカタチ、「コンセプチュアルアート」を提唱した。

つまりデュシャンが美術展に便器を持ってきたことによって起きた変化は何かと言えば、それまでのように、作者が作った写実的な作品を観賞者が見て、それを受動的に理解するといった視覚中心のアートのあり方ではなくて、これからのアートは、作者が作品を通して投げかけるコンセプチュアル(思考的)な「問い」に対して、鑑賞者が能動的にそれと向き合い、解釈し、理解をするといった双方向の「思考によって味わうアート」のあり方が、提示されたことによる変化なのである。

これが現代アートの始まりである。西洋美術史における大きな分岐点がここにある。これによってそれまでの伝統的な「美術」は、現代「アート」へと転換されたのである!!


          ウォーホル「キャンベルスープ」(1962年)


そして二度の世界大戦も終わり、高度成長期の時代に入ると、その新しい時代を映し出すアーティストが登場した。アンディ・ウォーホルである。彼は高度成長期のアメリカにあって、大量生産、大量消費を善しとする社会のあり方をアートを通じて世に示した。彼はそれまでの伝統的な美術が、オーダーメイドによって一点ものの作品を作ってきたことに対して、シルクスクリーンという印刷技術によって、アート作品の大量生産、大量消費を実現した。またテーマを大衆文化から得ることで、アメリカにおける前衛芸術運動である「ポップアート」の流れを切り開いた。アメリカでは日常品として、大量生産、大量消費されている「キャンベルスープ」などは、まさにそれを端的に表していると言えるだろう。



この作品は、それまでアート界を先導してきた抽象主義の世界観が持っているどこか神秘的で禁欲的な雰囲気を、その世俗的かつ商業的なモチーフによって打ち砕いたものである。またウォーホルは、自分の作業場をファクトリーと呼び、常日頃から「私は機械でありたい」と言っていたことからも、彼自身が新しい時代を体現するアーティストであった。


           ウォーホル「ブリロボックス」(1964年)

後に芸術的にも、商業的にも成功を果たした彼は、「ブリロボックス」を発表する。これは「キャンベルスープ」に続いてアメリカでは誰でも知っている食器用洗剤であるが、彼はこの商品のロゴやパッケージデザインを、そのまま木箱に写し取り、ニューヨークのギャラリーでそのまま発表、展示してしまった。この作品は今日においても、21世期のアートの方向性を指し示す重要な作品として取り扱われることが多いものであるが、何が特別かと言えば、ウォーホルがこの作品を通して「アート」と「アートでないもの」の垣根を取り払ってしまったことにある。つまり彼は、ブリロボックスという、ただの食器用洗剤の箱の複製をアートギャラリーに置いたことによって、「これこそがアートだ!」なんて言える枠組みなんて一体どこにあるのか?という問いかけ、つまり「アートとは一体何か?」という普遍的な問いを我々に投げかけたことにある。

このように、デュシャンによって始まり、ウォーホルによって広げられた現代アートという広大な大海原では、「アートとは一体何か?」という問いに応えるべく、それ以降、多くのアーティストによって、多種多様なアートのカタチが展開してゆく。

また材料となる「メディウム」も、それまでの絵具を用いた絵画や、石工を中心とした彫刻だけに関わらず、レディメイド(既製品)/写真/ビデオ/ダンス/インスタレーション/デジタルなど)多様化し、その流れは欧米だけに留まらず、世界中へと広がり、現代に至っている。

このようにアートは歴史を通じて、非常に自由かつ多彩な表現方法を獲得、展開してきた。それは稀代のアーティストたちによる魂の戦いの歴史であり、私たちが、創造主である神を賛美、礼拝し、その栄光を表すために、より自由で多様な表現をすることが出来るようにと、主が許され、開かれた扉なのである。それがアートの魅力であり、心底楽しいところでもあると私は確信している。初期キリスト教美術のところでも書いたが、大切なことは表現を規制をすることではなく、その使い方なのだ。

そんなアートの中でも、私は「現代アート」が好きである。それは私が一番最初にアートに興味をもったきっかけが、リレーショナルアートで有名な、リー・ミンウェイによる「関係展」を体験したからであり、またその後、アイ・ウェイウェイの社会に訴えかけるソーシャルエンゲージドアートに魅せられたからである。


        リー・ミンウェイ ”Letter Wrting Project” (1998年)

            「リー・ミンウェイとその関係展」から


         アイ・ウェイウェイ”Remembering”(2009年)

           四川大地震で亡くなった子供たちのために

      9000個のランドセルをつなぎ合わせて作成したアート作品



では、現代アートとは何かと言われれば、英語で言うと「コンテンポラリーアート」であるが、その意味のごとく、それは「現代」または「同時代」を表すアートである。つまりそれは現代を表す、または同時代を表すアートのことである。

著書「現代アートとは何か」を参考にするならば、それは作品のコンセプト、人の五感に訴えかけるインパクト、そしてその作品の持つレイヤーの深さ(解釈の多様性/美術史的価値/時代の反映性など)の3つの要素によって、評価されるものである。



しかしそれと同時に、私は現代アートを「2層のピラミッド型の図」によって分類している。そのほとんどは下部の2層目に分類されるものであるが、その中に、稀に上部の1層目に分類されるものがある。

ではその2層目における現代アートとは何かと言えば、アーティストがこの世の美醜聖俗を問わずに「同時代の時代精神」を作品に反映させたアートのことである。

そもそもアーティストという存在は、人よりも時代を感じ取る感性や嗅覚が優れているから、それらを敏感に感じ取り、そのアーティストの芸術言語によって創作する。そしてそれは多かれ少なかれ、同時代の人間の精神を表するような作品となってゆく。

往々にして現代のアートの作品の多くが、この層に属する作品群である。それは現代アートの表現の多様性を補完するものとしては有意義であるかもしれないが「アート」に対して真の意味で求められているものは、それ以上に1層目の内容のものであると私は思っている。

では1層目におけるアートのカタチとは何かと言えば、それは同時代の時代精神的枠組みを超えて、より普遍的な観点から問いを投げかけるアートのことである。それは、移りゆく時代の表層的なトレンドを追い求めるだけのアートではなくて、物事の本質が何であるかを洞察し、それを追い求めるがゆえに、深い問い掛けがそこから生まれ、それまでにはない新たな美や価値観を生み出してゆく様なアート、つまりそれは時代にとらわれない普遍的な問いを有したアート作品のことである。

またそういった作品には、既存の価値体系に対してパラダイムシフトを要請するような価値転換の力が内包されているために、それまでの古い皮袋から新しい皮袋への移行に際して、そこには必ず時代の変革に乗じた魂の戦いがありドラマがある。それこそが、人がアートに対して求めているものではないだろうか!

だからそういった作品群こそが「美とは何か?」という普遍的な問いに対して真剣に向き合ってきたアーティストたちの魂を、ズシッと感じ取ることができる作品群なのである。だからそれらは純粋にカッコいいし、心惹かれるし、感動を与えるものなのだ!!

そしてそういった「表現」こそが、現代に生きる全てのアーティストの真の課題であるだろう。

もちろんそういった真剣さは、時として、同時代の人間から拒絶されることもあるだろう。事実、昔から多くのアーティストたちが、既存の価値観によって拒絶されて来た。しかしその既存の枠組みをぶち壊して、それに代わる新たな美や新たな価値観を創造してきたのが、稀代のアーティストたちなのだ。もうすでにこれまで挙げたアーティストたちの作品もそうであるが、それに加えて他にも紹介したい作品があるので、個人的に挙げてみた。


             モネ「印象、日の出」(1872年)


印象派という言葉はこの作品の「印象、日の出」から来た言葉である。この作品は出展当初、それまでの写実主義の絵画に慣れ親しんだ人々からたくさんの批判を浴びた。印象派は当初、人々から受け入れられなかったのである。「これだったら描きかけの壁紙のほうがよほどましだ」と罵られた。しかしよく見れば、そこには霧の立つ朝焼けの情景がリアルに描かれているではないか。そこには印象派の描く「陽の日」が映し出す世界の姿、そのリアルがある。ただ時代がまだその輝きに気づかなかったのだ。

また絵の中に浮かんでいる前近代的な手漕ぎボードと、朝靄の向こう側に立ち並ぶ近代的な工場群が、あたかも前近代的な古い時代と、近代という新しい時代を、朝日の元に浮かび上がらせているように見える。まさに新時代の夜明け、印象派のはじまりである。


              ゴッホ「糸杉」(1889年)


ゴッホは晩年、黄色い家でゴーギャンと共に暮らした南フランスのアルルから、サン=レミという小さな村に移った。持病の発作や幻覚がひどくなって来たので、療養のため地元の療養院に入ったのである。入院後、しばらしくして外での活動が認められるようになったので、ゴッホは糸杉の風景画を描き始めた。

西洋では昔から、糸杉は死後の世界を司る神々の象徴とされる一方、その寿命の長さから長寿や命のシンボルとされてきた。緑の色彩豊かに、真っ直ぐ天へと向かって伸びてゆくその糸杉は、まさに生死を超えた存在であるキリストの象徴であり、南フランスの太陽同様、それはゴッホの中の宗教性や信仰の表現であるのだろう。そしてゴッホの人生もまた、何度もうねり紆余曲折を繰り返しながら、真っ直ぐに天へと向かって伸びてゆく糸杉のようであった。またその美に対する情熱は、まるで天に向かって燃えている炎のようであった。事実ゴッホは、その情熱によって誰よりも純粋に美を愛していた。


      ヨーゼフ・ボイス「7000本の樫の木プロジェクト」(1982年)


ドイツのアーティストヨーゼフ・ボイスは「すべての人間は芸術家である」と言った。ここで言う「芸術」とは、教育活動、政治活動、環境保護活動、宗教なども含めた拡張された意味での芸術活動・芸術作品のことである。ボイスは、いかなる人間の営み、芋の皮をむくといった行為でさえ、それが意識的な活動であるならば、芸術活動であると、その社会性を説明している。

そのボイスの晩年の作品が「7000本の樫の木」である。この作品は樫の木は生、そしてその隣に置かれている玄武石は死を意味し、この世界のすべては生と死の存在によって成り立っていることを表している。そしてこの7000と言う数字は一説には、かつて戦争の最中、ナチスドイツが収容したユダヤ人を飲まず食わずで何日も徒歩で行進させる、いわゆる「死の行進」というものがあった。脱落する者はすべて射殺されたことから、その残忍さが窺えるだろう。その死の行進に参加したユダヤ人の数がちょうど7000人であったことから、ドイツにとって負の歴史の象徴であるこの事件を、その数の樫の木と玄武石によって、後世に伝えるためでもあると言われている。


      アイ・ウェイウェイ「遠近法の研究」(1995年−2003年)


アイ・ウェイウェイは中国で活動する現代アーティストである。北京オリンピックの会場となった「鳥の巣」をデザインしたことでも有名である。彼は社会権力と戦うアーティストである。天安門に中指を突き立てているこの写真も、当然、天安門事件、また中国共産党の支配体制への彼の意思表示である。それゆえ彼はこれまでにも逮捕されたり、迫害されたり、命の危険を覚えるようなことも多数経験している。しかしそれでも彼が辞めないのは、彼自身がアートは自由なものであるということを、どんな環境の中にあっても信じているからである。だからいいのだ!


             千利休「茶室待庵」(16世記)

             利休が愛した黒楽茶碗(16世紀)


秀吉が関白として権力を持っていた時代、利休は秀吉の成金主義によって作られた黄金の茶室や、茶器が人命よりも価値があるとする当時の上流社会の風土に対して、あえて漁師や農民たちが日常的に使用していた日用品をレディ・メイドとして用いつつ、それを花生けにしたり、茶の道具に使ったりと、質素ではあるが、その中にこそ美しさを見出し、それまでにはない新たな美を表現した。利休は、欠けたもの、足りないものの中にこそ真の美しさがあると、それを重んじ、時の権力者である秀吉に対して命がけで茶道のあるべき道を貫いた。上の質素な茶室も茶器も、利休による「侘び寂び」の美の表現である。そこに美しさがある。(この続きは私のブログ記事である「金継ぎと侘び寂びとキリスト教の関係について」また「デュシャンと利休について」を参照のこと)

それらの意味において、現在このアート界を牽引している過剰に拝金主義的なグローバル資本丸出しのアートマーケットを基準として動いている ART WORLD など、この美術(アート)の歴史の流れを見たときに、的の外れた末期的な病的状態にあると言えるだろう。

(ジェフクーンズ/ダミアン・ハースト/村上隆 など)


            ジェフ・クーンズ “Rabbit" (1986年)


2019年にニューヨークのオークションで100億円で落札された作品。ラビットはポップカルチャーをテーマとしたステンレス製のバルーンアートである。この作品は80年代におけるアメリカの繁栄のシンボルであり、金やSEXを謳歌するといった、世俗的白人男性至上主義の象徴でもある。またクーンズの作品は基本的には「キッチュ」であり、つまり低俗で陳腐と言う意味であるが、現在の現代アートの世界においては、その低俗さが逆に評価され、一つの流れとなっている。


  ダミアン・ハースト「生者の心における死の物理的な不可能さ」(1991年)


鉄とガラスで覆われた巨大な箱に、全長4.3mのサメがホルマリン漬けにされているもの。ハースト自身が学生時代、遺体安置所で働いていた経験から、「死」というものがハーストにとっての主要テーマであり、これまでにも羊や牛などのホルマリン漬けの作品を制作している。インパクトという点においては目を見張るものがあるが、昨今の現代アートは話題性を重視するあまり、五感に訴えかけるインパクトばかりに頼った作品が多いように感じる。ハーストは2008年に自身の作品群をオークションにかけ、総額211億円という現存する現代アーティストの中では史上最高落札額を樹立した。


             村上隆「Miss Ko2」(1997年)


日本の現代アーティストである村上隆氏の作品。ニューヨークのオークションで6800万円の値がついた。ベルサイユ宮殿でのアート展示会時にも出展。村上氏は日本のオタク文化をアートという形で世界に紹介したことで、ART WORLDでの自身の地位を築いたが、「これが世界に誇る芸術だ!」と、この女の子のフィギアを世界のアート業界が称賛している時点で、現在のアート業界が、何か的のずれた、病いの中にあると言っても、差し支えはないだろう。

しかもここに挙げた作品らは、まだ現代という時を表す作品としての役割は十分果たしていると思うのだが、現代アートには、他にも反宗教的、不道徳なもの、また糞尿をテーマにしたものなど、実際目を覆いたくなるような作品が多数存在する。

このように、デュシャンによって始まり、ウォーホルによって広げられた「アートとは何か?」という普遍的命題に対して、多くのアーティストたちが、アートという自由で広大なフィールドの中で、美醜聖俗を問わず、新たな美や価値観の可能性を追い求めて、表現という名の「実験」を繰り返してきた。



その結果、多種多様なアートの可能性が示されたことにより、アートの世界の多様性を補完するという意味において、それらは非常に有意義な試みであったが、第2層の壁を越えるような、魂に深く刻み込まれるれる、普遍的な存在感を持った作品は、アートの感じ方の違いはあれど、稀であるように思われる。

その代わりに、現代アートという巨大な実験場は、その放縦な自由性から、ある種の無法状態を生み出し、その結果、自由と美の意味を履き違えているような作品たちが、ART WORLDという巨大なグローバル資本を盾にして、何か本質的なものを失っているにも関わらず、あたかもそれに代わる新しい真理であるかのような顔をして、大通りの真ん中を裸で闊歩するような状況になっているように個人的には感じている。いわゆるポストモダンの病いなのではないか。

ポストモダンとは、広大なる自由と引き換えに、人から何か「大切なもの」を奪ってしまった時代である。そしてそれは「物事の徹底的な相対化」と「大きな物語の喪失」という2つの要素によって失われたものである。


        ヴァシリー・ペロス作「ドストエフスキー」(1872年)


ロシアの文豪ドストエフスキーが、その著作を通してこのように言っている。人が神との関係を失って、自由意志の意味を取り違えると、人が神に代わって神となり、それによって人は善悪の道徳律を失い、倫理的にも、道徳的にも、審美感においても腐敗してゆく。なぜなら人が真の意味でその自由意思を行使できるのは神の愛と、その守りがあってこそだからであり、絶対性=永遠性の喪失、つまり神との関係を喪失した人間には、真の意味での自由など存在しないからだ、と。

ポストモダンという病に侵された人間は、神なき世界の中で、かりそめの自由を行使する代わりに、神さまの代わりに自分自身が小さな神々(リトルピープル)となって、善悪に関する全ての判断をその身に背負うことになってしまった。そのため人々は、各人が「神にある個人主義者」ではなく「神なき個人主義者」として、その大きな「つながり」を失って孤独となり、またそれゆえ人と人との本質的な繋がりも失って、一人一人が小さな狭い世界の中で棲み分けられ、孤独の中を生きるようになってしまった。倫理観は曖昧なものとなってその規律を失い、命すら軽視されてもそれを止める術を失ってしまった。それがポストモダンの特徴である。

そんな時代にあって、人々が心から求めているアートとは一体何か?

それは「いのち」と「つながり」のあるアート、それこそが新たな美の創造ではないか!と、私たちは確信している。その表現が、私たちにとっては金継ぎアートであり、それがJC Creative Art Ministry の理念である。


Kintsugi Art Exhibition「そこに命がある、そしてつながりがある」(2019年)


          Kintsugi Art Exhibition 上空図(2019年)

そして私たちは今一度「アート」というもののオリジンに立ち返って、問い直されなければならない問題があるのだと思う。それはこの被像世界のすべての創り主である神の存在をベースとしたアートであり、それこそは、このVUCAの時代にあって、人々がもう一度再考しなければならないことなのだ。

そしてそれこそが、311、そして今回のコロナショックを抱えた現代社会において、人々が求めている問いの答えであり、それがこのポストモダンを超えた「新たな美」の創造へとつながってゆくものになると、私たちは確信している。

なぜならこれまでの「ポストモダン的人神論」の限界は、すでに2011年3月11日の大災害によって示されているからであり、それはいみじくも村上隆氏が言った通り、これまで忘却されていた「宗教アート」の復興の契機であるからだ。

それは311後の世界というものが、いついかなる時に、人間の理性や予測を超えるようなことが起きてもおかしくない世界だからであり、そういう意味で現代とは、すでに人知を超えた神という存在抜きには語り得ない時代なのである。そういう時代に、今私たちは生きている。

現在世界中に蔓延している「コロナウイルス」という疫病からも、その時代性は伺える。

それは現代というこの時代が、聖書の言い方によるならば  End Time の時代である。

これからそれは、さらに加速してゆくだろう。

だからこそ、この End time の時代において、この時代の「希望」となるアートとは一体何なのか? それをひとつの命題として、これからのアートは、その答えを神と人と世界との関係性の中に求めてゆかなければならないだろう。

それこそが、私たちが求め、表現しようとしている「アート」なのである。


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