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憧憬のありか

更新日:1月19日

熱海市梅園町にある梅園(家から徒歩3分の場所にあり、人も少ないので穴場的な場所)

この梅園はとても好きな場所で、毎日犬の散歩に行っています。梅園と言うだけあって、庭園内には、あらゆる種類の梅が植えられおり、梅だけでこんなに種類があるのかと驚かされます。またここはとても多重奏的で、春、夏、秋、冬の様々な木々や植物が植えられており、同じ視界の中に幾層にも重なる形で、多くの種類の緑を楽しむことができます。


私は雑多にいろんな植物に囲まれているのが好きな方なので、家の中でもそのようにしています。その方が Multi-Cultural な感じがするので、とても楽しい気持ちになるからです。自分は専門家ではないし、詳しいことはよく分かりませんが、植物には見た目だけではなくて、ひとつひとつ性格の違いがあるので、手のかけ方も様々だったりします。それこそ最初は試行錯誤の繰り返しで、野菜などはなかなか成長しないものもあって、忍耐力のない私はどうしていいか分からずにイライラしたこともありましたが、それでも世話を続けているうちに、私自身、気が付いたら緑がとても好きになっていました。不思議なことです。


振り返ってみると、コロナ禍であるにも関わらず、日本行きのNZ Airline 200人乗りの飛行機の中、たった30人の乗客の一員として、多くの不安と孤独、期待よりも心配の方が大きかった日本への帰国、コロナのリアリティなど、よく分からない中で、14日間の隔離生活、それが開けたと思ったらすぐに起こった熱海市の土石流(すぐ近くだった)そしてそれから始まった日本文化への適応と具体的な生活は、まさに9年ぶりのリアルな現実として、年に一度2週間の予定で帰っていた「あの頃」とは違う様相をもって、私たちを迎えてくれました。決してすべてが順風満帆だったわけではなく、そこには多くの苦しみもあった。そして今も、その戦いの中にある。


その中で始めたのが、NZにいた頃から与えられていたビジョンであった緑の教会のイメージ、命溢れる教会のイメージの実現へと向けたアクションだった。


ある日、漠然としたイメージが心にまず与えられた。以前やった金継ぎ展示会の時のように、まずそれをホワイトボードにスケッチすると、それはまさに緑溢れる、また命溢れるイメージとなった。

まずはじめに花を育て、野菜を作りたいと思った。たくさんの苗と鉢、砂利や土を買って、見よう見真似で植えてゆく。個人的にガーデニングは、ほぼほぼ始めてに近い挑戦だったので、試行錯誤した分だけ、日々大きくなる野菜の苗たちに感動を覚えました。そのうちにペットボトルやキッチン用具を使った水耕栽培、また循環型水産水耕栽培(アクアポニックス)なども始め(現在大型のアクアポニックスを制作中)さらには観葉植物も育て始め、そこにパグの子犬(名前:チョコ)まで加わって、我が家はとてもにぎやかな場所に変わってゆきました。


そして数ヶ月、自分の緑を見る目がガラっと変わったことに、自分自身が一番驚きました。あ、隣の家のミニトマトの茎が倒れそうだな、大丈夫かなとか。こんなところにまだアジサイの花が咲いている、薄い青から濃い青まで、グラデーションがきれいだなとか。夏なので、紅葉や梅の青葉がたくさん覆い茂っている、緑の濃さがいいなとか。庭のバラが咲いたなとか。こうやって緑のものに目を向けると、いくらでも新たなストーリーがそこから生まれて来る。それは私にとって、とても新鮮な経験であり、コロナ禍の日本にあって、日々の生活を豊かなものにしてくれました。


帰国後、NZと違い、外に出る度にマスクを着用し、テレビではコロナの感染者数が過去最多との放送を目にし、度重なる緊急事態宣言と医療崩壊の現状、飲食店の経営難や新たなコロナ株の流布と世界の状況、専門家やパネラーの厳しい顔をした意見、テレビのNEWSを見るたびに、いつも同じような内容のものが朝から晩まで流れてゆく。それは何かとても息苦しく、深呼吸もまともに出来ないひっ迫した状況の中で、社会全体の生気までも薄く乏しいものに変化してゆく。


そんな中、外に出掛け、誰もいない庭園の中で少しの間だけマスクを外し、周りが青々とした緑に囲まれた中で一人深呼吸をすると、目の前がクリアになり、自然と周りの世界がよく見えるようになる。


そして天を見上げると、そこには本来帰るべき場所であり、主と共にある場所である天の御国が想い描かれる。


かつてこの地上にはエデンの園があった。人類は堕落後、楽園を追放される際、その憧憬を胸にそこを後にした。将来訪れるであろうミレニアムという、神が人のためにご準備されたさらなる楽園へと向かうために。


そのエデンへの憧憬と、やがて来るミレニアムへの期待を胸に、私は主とひとつとなり、その時に思いを馳せる。


その時その瞬間、私は梅園という庭園において、その緑の中で、憧憬を感じ、天を仰いで、やがて来る永遠を感じている。

だからこそ私は主によって与えられたビジョンでありイメージに従い、現在の住まいの内も外も、できるだけ緑のものでいっぱいにすることに決めた。


それはいつでも五感を通じて緑に触れ、主が創造されたわざに触れることができるように。そしていつでも身近に主の恵みを感じることができるように。


事実緑のものがこのコロナ禍にあって、主から与えられている私たちにとってのリアルな恵みであるというのは、アメリカの航空宇宙局NASAによっても実証されている。宇宙船のように、密閉された宇宙空間の中では、空気が汚れやすく、本来ならば定期的な換気が必要なのだが、窓を開けるわけにもいかない状況の中で、なんとか中の空気をきれいにする必要がある。そこで目を付けたのが観葉植物だった。


研究の結果、観葉植物には高い空気洗浄能力と、宇宙飛行士らの健康を害する恐れのある有害物質を除去する能力があることが認められた。例えばファイトケミカルという化学物質は、空気中に浮遊している人体に有害なカビの胞子やバクテリア、またアンモニアなどを抑制し、吸収する働きがある。つまりそれは天然の空気清浄機なのだ。


また植物から放出されているマイナスイオン等の働きは、疲労回復、眼精疲労の軽減、心拍や血圧の安定、またリラックス効果などがあり、そのため宇宙船内には数多くの観葉植物が置かれている。


また家庭菜園などで収穫した新鮮な野菜をベースに「野菜スープ」を食べることによって、私たちは野菜たちの豊富なファイトケミカルを口からも取り入れることができる。これはガン予防や免疫力の強化のみならず、ウイルス対策において絶大な効果を発揮する。まさに創造主なる神の恵みと力が、緑のものの中に与えられている証拠である。


でもそれだけではない。私たちは緑のものを通して、神さまが最初の人アダムに命じた二つの命令を守り行うことをも求められている。それは何かと言うと、名付けることと管理することである。


名付けるとは、相手を知ること、理解すること、愛すること。現在私たちの所には30種近い植物があるが、そのどれもが生き生きと成長し、きれいな緑として大きくなるためには、ちゃんと愛してあげなければならない。それが一番大事なことだと思っている。


そして管理するとは、責任を持って維持管理することであるのと同時に、原語的な意味では神さまのワザを楽しむという意味がある。だから私たちは、緑の植物や花や野菜や果実や木々を通して、神さまの創造のわざを楽しみ、またその中に喜びを覚えることができる。


しかしそのためには日々の維持管理という責任があって、その手間ひまがあってこそ、それは初めて楽しく享受できるというユニークな真理がそこにあることを忘れてはならないだろう。


きれいな花が咲いていることを喜び、心地の良い木陰に安らぐことを楽しみ、風に揺らいでいる葉を眺めることを喜び、自分が育てた野菜や果実を収穫し、その恵みに預かることに楽しみを覚える。なぜならそれら一つ一つが、主の命に従うことであるからだ。


そしてその恵みに預かる時、私たちは創造主なる神に対して、ただただ感謝の思いで満たされ、その思いは自然と神に対する謙遜さにつながってゆく。その時私たちは、複雑な現代社会の中にあっても、混沌とした霊の戦いの中にあっても、純粋なる神と人とのあるべき関係性の中に立ち帰ることが出来る。


現在、梅園に行く時間と家の緑たちに水を上げている時間が、私の一日の生活の中で、最も楽しみで豊かな時間となっている。つまりそれまで気にもかけなかった緑たちが、急に自分の中にリアルなものとして入ってくるようになったからだ。それらは今までに経験したことのない、とても豊かで平穏な心を私に与えてくれている。

ちなみに先週家族と一緒に温泉旅行に出掛けた際、旅館の露天風呂のすぐ脇に、一本の木が植えてあった。木のすぐ横、お風呂の隅に腰を下ろした私は、その木の葉が、立ち上る湯気の中でそよいでいる姿を見て、なんだかうれしくなって、他の人が露天風呂の見晴らしのいい場所を取り合っている間に、ずっとお風呂の入り口付近にあったその木を笑顔で眺めていた。10分経っても、20分経っても全く飽きがこない。


その時ヨナが心地の良い日陰を提供してくれたお気に入りの「とうごまの木」を神さまに取られて、とても怒ったという気持ちが少し分かったような気がした。それは緑と共にあることによって、私たちの内側に豊かなものが生み出されることを、私たちは知っているからだ。


人は砂漠の中で本能的にオアシスを求めるように、息苦しい環境の中においては自然と緑を求めるようになる。それは一つに植物が光合成によって、新鮮な酸素を無償で提供してくれるという、神の恵みとわざがそこにあるからだ。


そしてさらには、神が人のために、また魚や鳥や動物たちのために、そしてこの世界全体の生態系の循環のために、愛を持って緑のものを創造されたという事実がそこにあるからだ。


だからイギリスの哲学者であり、神学者でもあるフランシス・ベーコン曰く「神はまず初めに庭園(エデンの園)を設けられた。実に庭園とは、人が持つ喜びの中で、最も純粋なものである」という言葉は、とても的を得た言葉であると思っている。なぜなら人の根源的な喜びがそこにあるからだ。


ちなみに、ここの家(写真下)では今、中は観葉植物、外では各種野菜を育て、さらにその向こうには、古くからこの家に植えられている夏みかんやかぼす、梅などの果樹がある。特に今は夏真っ盛りなので、緑がとっても青青としている。夏みかんの収穫まで、もう少しといったところか。ずっと見てても飽きないし、そこに嬉しい景色がある。


またこの写真のように、中の緑と外の緑、さらにはその向こう側にある木々や山々が、一つの視界の中に幾層にも重なり合ってつながっているかのように見える。それはまるで今この世界にいる自分が、この世界のただ中にありつつも、その境界の向こうの側の世界とつながっているかのような感覚を心に起こさせる。かつてエデンの園から始まった私たちの寄留者としての歩みが、主の導きの元、やがて来るミレニアムへと向かってゆくように。緑のグラデーションがその想像を導いてゆく。

さて話は戻って、私は梅園を散策している時、その緑の中で「憧憬感」を心に覚えることがある。それは心の中の霊的現実であるのと同時に、どこかで見たことがあるような懐かしい景色、心の深いところにフックする心地の良い風景、まさに心象風景や原風景のようなもの。そういった感じを覚える。


実際、人が心に覚える癒しの風景というものがあるのだが、多くの人によって導き出されたその統計によると、癒しの風景とは、緑あふれる草原、緑の葉が覆い茂る木、青い空、白い雲、きれいな水の流れなどがそれに当たるらしいが、エリヤが死を願った時、かつてアブラハムが豊な水を生み出す井戸を掘り、木陰を生み出す柳の木を植えたベエル・シェバへと向かったのも肯ける。それはエデンの園のひな型であり、人は本質的にそういう風景を求めているからだ。


時代や地域の違いこそあると思うが、私はすべての人が心の深いところにおいて、最初の人アダムから始まって、先祖代々受け継いできたものの中に、原罪だけでなく、かつての楽園であったエデンへの憧憬の念もまた、その心にあるのではないかと思っている。


だから16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパの人たちは、この地上に再びエデンの園を造り出そうと、そのあくなき情熱によって世界を探し求め、様々な庭園を作り、それが事実、西洋の近代庭園の基礎となっていった。それは時代性によっても、国や地域によっても、またその人の育ってきた文化や環境によっても相違はあるものの、私はすべての人の心の中には「エデン」という原風景であり憧憬があると思っている。


だから人はいつも心の中で楽園を求めている。またあの場所に帰りたいという思いを、その心に持っている。その根源的なるものが「エデン」であり、そんな我々のために、神さまがこの先の世においてご用意されているのが「ミレニアム」という場所であると私は思っている。

聖書によるならば、私たちは将来、キリストの再臨と共に、キリストと共にミレニアム(千年王国)へと導かれる。そこはかつてのエデンの園の再来であり、そこには川が流れ、豊かな緑と共に様々な実がなる果樹が茂り、その葉は諸国の民を癒すとある。そこは命あふれる、緑あふれる場所であり、ひょうと子やぎが一緒に戯れる楽園であると記されている。そしてその中央には王としてのキリストがいて、私たちはキリストと共にあって、キリストのようになる。


その時私たちは、キリストと顔と顔とを合わせて「ただいま」と言うのだろう。そこは涙も悲しみもない、ただ主の恵みが溢れている、主のわざを喜ぶ場所である。


だからこそ私たちは、将来主が私たちのためにご計画されているその恵みのゆえに、今この時も、私たちを愛し守り導いてくださっている主に対して、愛を感じるのである。


このコロナ禍にあって、マスクというフィルターを通してしか呼吸のできない、深呼吸をすることもままならない世界の只中にあって、人はいかに主の恵みの中に憩い、天に想いを馳せることが出来るのか。


こんな終末時代だからこそ、将来への希望と、主の再臨を待ち望むキリスト者の姿勢が今求められている。ではそれはいかに生み出せるのか。


その具体的な答えとして、今回主によって与えられたビジョンが、緑あふれる教会、命あふれる教会のイメージであった。


事実緑のものは、天の光を受けて、新鮮な酸素を私たちに無償で提供してくれる。まさに神の恵みである。さらにその命の中には、人を始め被造物全体を愛されている神の愛が示されている。


だからこそ私たちが神の命に従い、与えられているものを愛し、管理し、それを楽しむならば、ビフォーコロナにおいて当たり前であったことが、ウィズコロナにおいては感謝と喜びに変えられてゆくだろう。


深呼吸をして、周りの風景をよく見渡すならば、気づかなかった恵みがそこにある。


憧憬のありか、

それはキリストの只中にある。


こんな息苦しいコロナ禍の時代だからこそ、深呼吸をして、主を見上げて歩んでゆくために。神の恵みと愛は、私たちの身近なところにあるのだから。


































































































































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