聖書箇所:マルコによる福音書5章25節から34節まで
はい、みなさーん、おはようございまーす。今日はね、『着物の房に触れる信仰』と題して、メッセージをしたいと思います。
まず初めにですね、私、今から18年ぐらい前になりますが、ヨットに乗りたくて、
横浜のベイサイドマリーナって言うところで免許を取りに行ったんですね。
まずは座学の講習を受けて、その後ですね、実際に乗ってみたんですが、まず驚いたのが、ヨットって乗ってみると、ロープだらけなんですね。ありとあらゆる所にロープが張り巡らされている。こんな感じです。
だからロープワークっていうのが、すごく大事なんですね。風の強さや風向きによっても、ロープを緩めたり閉めたりする。岸壁に固定する時、帆を仕舞う時、すべてロープワークが必要なんですね。だからヨットのためのロープワーク集なんて、本まで売ってるぐらいです。こんな感じにですね、たくさんあるわけですね。
さて、なんでですね、最初にこんな話をしたかと言うと、今日のメッセージに出て来る『着物のふさ』、この着物のふさにも、あるロープワークの技が使われています。
それは、人によっては毎日、やっていることなんですね。特に男性の方、特二オフィスワークの方は、いつもこのロープワークをやっています。さて、何でしょう?(聞く)
はい、答えは「ネクタイ」なんですね。ネクタイを結ぶ時に、最もポピュラーな結び方の一つが、このダブルノットなんです。ノットというのは、結ぶということなんですが、今日出て来る『着物のふさ』にも、この結び方が使われています。そしてそれは、とても意味のあることなんです。
それでは、それが何なのかは、後でのお楽しみとして、今日の本編の方に入って行きたいと思います。
まずは、マルコによる福音書5章21節(読む)から見てみましょう。
ちょうどこの時、イエスさまは、ガリラヤ湖周辺を、舟に乗って、東に行ったり、西に行ったりしながらですね、訪れた町や村で、人々に御言葉を宣べ伝え、病いを癒し、また悪霊に憑かれた人々を助けていました。
マタイによる福音書9章35節にはこうあります。(読む)
まずイエス様は、町や村を巡って、御言葉を宣べ伝えられました。御言葉というのは、聖書の言葉であり、神の言葉です。
神の言葉には力があるわけですね。この世のすべてのものが過ぎ去っても、神の言葉は永遠に立つと、聖書に書いてある通り、それは人の心を、この地上の限られた有限の世界から、永遠へと向かって、天の御国へと向かって、導かれる、力ある言葉なんですね。
それはまた、神さまの愛の言葉なんですね。だから、聖書の御言葉は、『私の足の灯火、私の足の光です』と、詩篇の作者によって書かれているように、私たちの人生を喜びで満たすもの、平安で満たすものであって、この有限な世界の中で、罪や死というものに縛られている私たちの内に、自由と解放を与えてくださるものものなんですね。
だからイエス様は、訪れた各地において、神の愛である『御言葉』を宣べ伝えられました。
そして、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒された、と言っています。病といっても、それは体の病だけじゃない、心の病もそう。また不治の病と言われていた、あらゆる病気を癒されました。
マタイ4章24節にはこうあります。(読む)
とあるように、あらゆる病を癒すと共に、イエス様は悪霊の追い出しも行っていました。
私たちが、神の霊である聖霊によって守られていて、その人生を正しい方向に導かれているように、この世界には、悪霊というものいるわけですね。
確かに、神の子であるイエス様が存在するように、サタンというのも、この世には存在するわけです。そしてサタンにつき従う霊である、悪霊も、存在しています。
私たちに恐れを与え、私たちをキリストから引き離すように働きかけ、私たちの人生を壊そうとするもの、それがサタンであり、悪霊なんですね。
だからイエス様は、ご自分の御名によって、イエス・キリストの御名によって、『悪霊よ、出て行きなさい』と、その霊を追い出しました。
それは私たちの人生に、喜びと自由を与えてくださる、神の愛、以外の何かしらのものによって、心縛られている、苦しめられている人たちを、その束縛から解放し、その心を主の愛で満たすために。
イエス様は、人々の霊、心、体、そのすべてを癒して、その人の人生を、光の刺す方へと導かれるわけです。私たちの救い主、そして癒し主であるイエス様が、この時、ガリラヤ湖周辺を巡りながら、弟子たちと一緒に旅をしていたわけです。
そこに、ある女性がやって来ました。
マルコ5章25節(読む)
まず、長血とは何なのか?ですが、これはですね、婦人の方の不正出血のことを言います。この女性は、それが12年間ずっと続いていた。とてもつらいことだと思います。
5章26節(読む)
可哀そうなことに、この女性は、その病いのために、多くのものを犠牲にし、また失って来たわけです。すべての持ち物、すべての財産を失うだけじゃない、その症状も悪くなる一方だった。
私たちの人生においても、こういう事ってあると思うんですね。何か問題があって、それを解決するために、一生懸命になって、いろんなことを試してみるけども、うまくいかない。
それどころか事態はもっと悪化して、最終的には、もうお手上げだ、となってゆく。
でもそういう時って逆に、実は神さまに導かれているということもありますよね。
そういう時こそ、神さまから「私のところに来なさい」と、
言われている時かも知れない。
あなたの問題が、解決できる道は、私にあるんだよ。
救いの道は、私にあるんだよ。
イエスさまはそう言った状況の中で、私たちに語りかけているわけです。
だから私たちは、何か問題があった時、人生に行き詰まった時、まずは神さまのところに、その問題を持ってゆくことができるわけです。
心鎮めて、お祈りすること。聖書の御言葉に触れること。
不安や悩みや問題を、主にゆだねること。
そういうことができるって言うことが、クリスチャンとしての特権であると私は思っています。だって神さま知らない人は、それできないんですから。これってすごい大きい事だと思うんですよね。
だから全ての人が、神さまと出会えたらいいなぁって思うわけです。
(神さま、いま私は、こういう問題をかかえています。あなたが、それをすべてご存知であること、そして私のことを愛してくださっている、導いてくださっている、天の父なる神さまであることを、心から感謝いたします。どうか、私のことを導いてください。どうか私の道を開いてください。この問題に解決の光をお与えください、お願いします。イエスさまのお名前によって、お祈りします。アーメン)。
こうやって私たちは、いつでもですね、主に祈ることが、できるわけです。これは本当にクリスチャンの特権ですよね。
自分の問題や重荷、自分の弱さ、自分の痛み、それらすべてを主にゆだねることで、私たちは自分という人間が、主の愛の中に包まれているということを深く感じることができるわけです。
そして主は、そんな私たちの祈りの声を必ず聞いてくださって、それに応えてくださる方なんですね。それは私たちの主が、生きて働かれている神さまだからなんです。アーメン。
証:以前にも、少しお話しましたが、私たちが宣教師になる前、日本の横浜で暮らしていた時は、本当にあっちにぶつかって、こっちにぶつかって、その生活は、迷いと間違いの連続でした。
今から18年前、横浜で結婚して、当時、親の会社で働いて、立派な家があって、子供がいて、普通に見ればですね、幸せな生活を送っているファミリーのようであった私たちは、すでに行き詰まっていました。
親との関係、夫婦の関係、自分自身との関係、そして神様との関係、すべてが行き詰まっていて、もうどうしていいか分かりませんでした。
その結果、仕事を辞めて会社を立ち上げても、それも立ち行かなくなって、毎日、家族で車に乗って、近くのスターバックスでコーヒーを買いに行って、広い駐車場の一番端っこに車を止めて、ただただ時間を潰すみたいなことを毎日やっていました。そうしている間に、退職金も無くなって、ある日コンビニで雑誌を見ていたら、カレー屋さんの特集をしていたんですね。
そして誰でも作れる名店の味、なんてレシピが載っていたもんですから、私はですね、藁にもすがる思いで、急いで家に帰って、『カレー屋さん、いいんじゃない』なんて、妻と一緒に作ったんですが、これが美味しくなかったんですね。
そんなことをやってる間に、まだ赤ちゃんだった下の娘が急にいなくなって、『あれ?』って思ったら、床に落ちていた尖ったプラスチックを飲んじゃったんですね。急いで病院に行きました。
感謝なことにですね、なんの問題もなかったんですけど、その時に思ったんですね。「ああ、何やってんだろう」って。
それから、祈るようになって、もちろんそれからも、いろんなことがありましたけれども、最終的には、ニュージーランドに行って、宣教師になるわけです。
その娘が大変だった日に、もうどうしていいか分からなくて、疲れ切って絞り出すようにして祈った、祈りの言葉なんて、今は覚えてないし、多分最悪の気持ちで、疲れ切った声で、祈ったんだと思います。
でも神さまは、そんな私の祈りをちゃんと聞いてくださって、全ての道を整えて、開いてくださったわけですね。だから今があるんです。
主は私たちの祈りの声を聞いてくださる方。
どんな状況であっても、どんな思いであっても、私たちの神さまは、私たちの祈りの声を聞いてくださる方。
だからお祈りっていうのは、本当に大切なんだって思いました。
話は戻りますが、この長血の女性も、12年の間、その病いに苦しんでいました。そして多くの医者にもかかりましたが、ひどい目にあわされて、全てを失ってしまったと聖書に書いてある。しかも病状は、悪化する一方だった。
しかも当時のユダヤ社会においては、この『長血の病』というのは、人から避けられるものだったんですね。社会から排斥されていた。理解がなかったわけです。
だから彼女は、身体的にも、精神的にも、また社会的にも、
人々から排斥されて、後ろ指をさされて、孤独で辛い状況にあったわけです。
だいたい私たちが辛くなる時って、彼女のように、何かここだけが辛いんだよねぇって言うよりも、すべてが辛くなりますよね。なぜかすべてが壁に覆われているかの様になってゆく。そして出口が見えないことで、どんどん行き詰まってゆくわけです。
だからこそ、教会っていうのは、いいですよね。そこには祈り合える兄弟姉妹がいる。話を聞いてくれる仲間がいる。励ましの言葉をかけてくれる友人がいる。そして天を見上げれば、私たちの祈りの言葉を聞いてくださる神さまが、共にいるわけですから。教会って言うのは、そういう恵みの場所なんですね。
先ほどの私の証の時、私たちには、当時、固定して通っている教会がありませんでした。人と深く関わることを避けていたからです。だから今週はここの教会に行こっかぁ、また来週はあそこの教会に行ってみようかぁ。そんな落ち着かない生活を2、3年していました。
だから一緒に祈ってくれる兄弟姉妹がいるっていうこと、色んな人の祈りによって支えられているんだなぁっていうことは、今になって深く実感しています。本当に感謝だなぁって。
それでは、マルコによる福音書5章27節を見てみましょう(読む)
いよいよ彼女は、イエスさまのことを耳にするわけです。
この女性は、とてもアクティブな人なんですね。なぜなら、もし彼女が、家の隅っこで、長い間、外に出ることもなく、じっとひきこもっていたら、イエスさまのことを耳にする機会なんて、多分なかったかと思います。
でも彼女の心のアンテナは、まだ生きていたんです。だから彼女は、すべてを失っても、各地の町や村を訪れ、あらゆる病いを癒しながら、この町までやって来た、イエスさまの話を聞いた時、すぐに立ち上がるわけです。
それは先ほどマタイ4章24節の御言葉にもあったように、イエス様の噂は、すでに「ガリラヤ湖」周辺だけじゃなくて、さらに大きな「シリア全域」に渡って広がっていたからです。有名人だったわけです。
だから彼女がイエス様のところに行った時、すでに周りはたくさんの人が集まっていて、その中に入り込むということは、彼女にとって、とてもハードルの高いことでした。
社会から排斥され、避けられている自分が、こんなところにいていいんだろうか? 心の中には緊張も恐れもあったと思います。
しかしそれでも彼女は、イエス様に一目会いたい、イエス様なら、私の病いも癒してくださるに違いない。そう信じて彼女は、イエス様の所に行くわけです。
たくさんの人の中で、直接イエス様と話したり、またイエス様に、この病のために祈ってもらえなかったとしても、イエスさまの着物、ルカによる福音書では「着物のふさ」となっていますが、イエス様の『着物のふさ』に触ることでもできれば、きっと直るって、そう信じていました。
マルコ5章28節見てみましょう(読む)
だから彼女は、イエス様の着物の『ふさ』に触ったわけです。この着物の『ふさ』とは、何かというと、ユダヤの人たちが着ていた着物の四隅につけられた『糸の束』のことなんですね。
こんな感じでしょうか?
そしてこの着物の『ふさ』についてはですね、旧約聖書の民数記にも記載がありますので、見てみましょう。民数記15章37節から40節です(読む)
つまり神さまは、イスラエルの人たちに対して、私を思い出すために、その着物の『ふさ』を見なさい!と言ってるんですね。
その着物の『ふさ』を見ることで、主の命令、主の言葉、またこれまで主と共に歩んできた、そのすべてを想い起こして、自分が主の民であることを知るために、イスラエル民族は、その着物に、この『ふさ』を付けました。
つまり、この『ふさ』とは、『主の言葉』または『自分は主の民である』ということを思い出すためのものなんですね。
実際に、なぜこの着物の『ふさ』が、主を思い起こすための、その象徴的なものなのかと言うと、ここに解説があります。
この着物のふさですね、ヘブル語で『ツィツィット』って言うんですね。そしてこういう作りになっています。
まずは白や青の糸の束に5つのノット、結び目を作ります。先ほど見た『ダブルノット』という結び方をしています。いわゆるネクタイ結びですね。1、2、3、4、5と。
そしてその下に8つの『ひも』を垂らします。そしてこの5つのノットと8本の紐を足すと、合計が13になるんですね。
さらに、この『ツィツィット』というヘブル語自体が、数に換算すると(すべてのヘブル文字はですね、数字に換算することができるんですね)この『ツィツィット』を数字化すると、全部で600になります。
つまりこのツィツィットの600に、先ほどのノットの5と紐の8を足すと、全部で合計が613になります。
この613って数字、どっかで聞いたことありませんか?
これ実はですね、モーセの律法の数なんですね。つまり『神の言葉』を表しているわけです。
だから、この着物の『ふさ』を見る度に、私の言葉を思い出しなさいって、神さま言ってるんですね。そしてそれは、イスラエルの民の伝統として、イエスさまの時代においても、語り継がれ、また実際に、そういった服を着ていました。だから、その着物の『ふさ』は、ただの服の飾りなんかじゃなくて、主を覚えるために、付けられていたんですね。
だから彼女は、信仰をもって、イエスさまの着物の『ふさ』に触れました。
それは彼女にとって『イエスが主である』ということの信仰告白であるのと同時に、イエス様の『着物のふさ』にでも触れば、きっと直るって、そう信じていたからです。
だからイエス様の周りには、町中から大勢の人が集まって、みなが『押し合い引き合い』するような状況であったにもかかわらず、
30節(読む)
このようにイエス様もまた、誰かがご自分に触れたことに気が付くわけです。辺りは人だかりで、実際に多くの人がイエス様に触れていたと思います。
しかし、気が付くわけです。なぜならそれは、彼女が本当の意味で、信仰を持って、イエス様に触れたからなんですね。
29節(読む)
その結果、12年も続いた、『長血の病』が癒されたわけです。
主のワザが、彼女の上に、現わされたわけです。
では、適応です。
今回登場したイエス様の着物の『ふさ』の意味、それは『主のことば』または自分が『主の民』であるということを表すものでした。
だから私たちも、日々の生活の中で、礼拝の中で、そして祈りの中で、主のことばに触れ、主の言葉に聞き従い、自らが主の民として、信仰を持って、新たな一歩を踏み出す時、彼女のように、何かが変わるわけです。
12年も続いた長血の女の病いが癒されたように、自分では絶対に無理だって思っている事も、神にあっては、可能なんですね。だから
マタイによる福音書19章26節(読む)
こう書いてあるわけです、アーメン。
そして話は戻ってマルコ5章32節から33節まで(読む)
このように彼女は、自分の身に起こった癒しのワザ、神のワザを知り、主の前にあって、自分の身に起こったことを、大胆に打ち明けました。
これってつまり証だと思うんですね。人がイエスさまと出会って、主の言葉に信頼して、主の民として一歩を踏み出す時、人生が変えられてゆく。その人生が、祝福へと変えられてゆく。それを主の前に、そして人の前に、宣べ伝えてゆく。まさに証ですよね。
そして34節(読む)
イエスさまはここで彼女のことを「娘よ」と語りかけるんですね。英語だとDaughter と
言っているわけです。
マタイ12章に、イエスさまにとって、神さまの御心を行う者こそが、わたしの兄弟、私の姉妹、また私の母であると、そう書いてある箇所がありますが、信仰によって、新たな一歩を踏み出した、この彼女に対して、イエスさまは最も近しい表現である「娘よ」と語っているんですね。
そして「安心して帰りなさい、すこやかでいなさい」と、声をかけられました。主の慰めが、ここにあるわけです。
病気のゆえに、人からも社会からも排斥されてきたこの女性は、最終的に、イエスさまと出会うことによって、その人生が変えられた。そこには、この女性がイエスさまの元へと、信仰を持って、踏み出したという、決断と行動がありました。
だから私たちもまた、イエスさまと出会って、自分の人生が変えられた経験をしているお互いとして、この癒された女性のように、主の言葉に聞き、ただ聞くだけじゃない、主の民として、新しい一歩を踏み出してゆく。そんな信仰者でありたい。そう思います。
なぜなら私たち一人一人は、主がその命を投げ捨てるほどに、愛して下さっている、主の息子であり、また娘であるからです。
それでは、お祈りしましょう。
(お祈り)
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