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芸術を学ぶことの意味

更新日:2020年11月19日



ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の思想によれば、私たちは日々の日常生活の中において、教育活動、政治活動、環境保護活動、宗教活動、またそれが芋の皮を剥くといった行為でさえ、もしそれが芸術的に意識的な活動であるならば、それは拡張された芸術活動の一環となり、そもそも人は自らの創造性によって社会の幸福に寄与し、また誰でも未来に向けて社会を彫刻し得る存在なのである。


ボイス曰く、すべての人は芸術家であると言う通り、確かに私たちはみな、与えられている創造性をフル活用することで日々の仕事や家事をこなし、誰でも創造的な行為に対して、それを行う方も受ける方も喜びを覚えるものである。なぜなら私たちは基本的にみな創造的な存在であり、また創造的な行為が好きだからである。

芸術というものが、デュシャンやウォーホルといった先人たちの革命的な働きによって現代アートとして刷新されて以降、芸術は、一部の特殊な技術を持った人間たちによる限られた創作行為ではなく、誰でも自由な発想の元で参与できる創造的な行為として、その地位を獲得した。だから現代においてアートとは、すべての人が参与できるものであるという意味において、すべての人が隠れたアーティストであると言える時代となった。 しかしそれはすべての人間が意識していることではなく、芸術というものを学ぶことによって明確になってゆく確信であるだろう。今はYouTubeを始めSNSによる技術革新と、その表現媒体の発達によって、全国総人口みな自己表現の時代となった。しかしそれでは自由な表現がみな芸術でありアートなのか?というと、それもまた少し違うと言える。


ラスコーの洞窟壁画やエジプトの壁画、キリスト教との関わりの中で発達してきた西洋美術の歴史だけ見ても、芸術、アート、また「美の表現の世界」は太古の昔より今に至るまで、人々の営みの中に生き続け、希望や喜び、創造する力、そして生きる意味を人々に与えて来た。


学ぶことを通して、私たちはそれまで感じることのなかった先人たちの息吹を感じ、また学ぶことを通して、私たちは現代という「表現の時代」の中で、よりクリエイティブな美の表現を追求することが出来るようになるのではないか。


だからこそ、芸術の学びというのは、私たちアーティストが「アーティスト」となってゆくことであり、それがすべての人に開かれている扉でありながら、同時に畏敬の念をもって取り組むべき長い歴史と継がれてきた伝統、そして人としての本質的な部分に属する営みであることを思う時、その奥深さを改めて思い知らされる。


コンテンポラリーアートひとつ取っても、現代アートの父としてデュシャンの名がまず上がってくるが、日本においても、デュシャンよりさらに400年以上も前からコンテンポラリーアーティストとして活動している人物がいた。千利休である。よく朝顔の逸話や、茶室で使われていた花生けなどを例に上げて、デュシャンと共に取り上げられることがあるが、利休は当時、茶器が人命よりも尊いとされるような社会にあって、黄金の茶室に代表されるような天下人秀吉の統治する世において、それとは真っ向正反対の「侘び寂び」の思想を茶の道の中で実践した人物であった。

それは戦国時代という時代背景にありながらも血生臭いものでなく、荒く粗野なものでもない。その表現はあくまで静かで美しいものであったが、そこにこそ美があり芸術があった。それは利休にとって茶の道の真実を貫くための命がけの戦いであった。


このように利休一人とっても、芸術の世界は奥が深く、人生の真実に迫るものがある。しかもそれが「茶」という私たちにとって、とても日常的なものを通して語りかけてくるものであると言う意味において、芸術とは私たちの日常の中に自然とあるものでありながら、奥が深く、生涯をかけて学び、そして探究できるものであることを、ここに確信する。

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