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金継ぎアート展覧会について

更新日:3月14日



2019年10月に行ったKINTSUGI ART EXHIBITION時に作成したパンフレットから


こんにちは。MBCC 主催、金継ぎアートエクスビジョン にようこそ。 私たちの教会では、去年の 10 月から、金継ぎを用いた アートワークショップを毎月行って来ました。月一回の ワークショップを始めて早1年、これまでに延べ100人 以上の方々と共に「欠け」を継いできました。

今回のアートエクスビジョンは、その集大成であり、たく さんのボランティアスタッフの協力と祈りによって創作し た「リレーショナルアート」であります。

まず「金継ぎ」とは何か?それは500年以上前から今 に伝わる日本発祥の伝統技術で、割れたり、欠けたり してしまった器に漆を使って接合し、その上に金や銀で 装飾して修理をするというものです。主に茶器や器な どを用いる茶道の文化と共に広がってゆきました。

いわゆる日本特有の文化である「侘び寂び」の精神の 中から生まれた技法であり、欠けたもの、足りないもの、 劣化したもの、つまり不完全なものの中にこそ、多様で 独特の美しさがある。それを活かすことの中に、昔の 茶人たちは美しさを覚えた。 だから彼らは器を接合し、金を蒔き、その継ぎ目をあえ て目立たせることによって、その継ぎ目のことを「景色」 と呼んだり「川の流れ」と呼んだりしました。

日本においては2011年の大震災以降、震災で割れ た器を修復するために、金継ぎがフォーカスされました。

そして現在、金継ぎの中に流れるその文化や精神性、 その美しさは、時を超え、国を越え、日本だけではなく世界においても、多くの人が共鳴するものとなっています。今回 MBCC では、その金継ぎを用いたアートエクスビジョンを展開いたします。

テーマは「そこにいのちがある。そしてつながりがある」

現代はグローバル化の波によって、人と人、世界と世 界とがもっと近くなったと言われています。事実インタ ーネットの普及によって、人、金、モノが爆発的に流通 するようになりました。またデジタル技術の発達は、私 たちの社会生活をより効率的、より合理的、より迅速な ものにしました。それは事実でしょう。しかしそれと同時 に、私たちの身の回りには、戦争、殺人、テロ、人種差 別、環境破壊、また富の一極支配による経済格差など、 人が人のいのちを奪い、人と人のつながりを壊す多く の問題があります。それらの問題を根本的なレベルで 考えてみた時に、それらはすべて神と人との関係、ま た人と人との関係、そしてその人個人の自己との関係 が、どこかで欠けている、また壊れているからこそ起こ っている問題なのではないでしょうか?

「この世の終わりには多くの人の愛が冷めるようになる」 といった聖書の言葉の通り、私たちはそういう世界の ただ中に今生きています。

そんな時代にあって求められているもの それは「いのち」であり「つながり」ではないでしょうか?

今回のアートエクスビジョンでは「いのち」と「つながり」 をテーマとして、その内容として3つのセクションを通じ て、そのリアリティを感じられるようなアートを創作して みました。どうぞお楽しみください。


まず聖書の物語の中に「生まれつき盲目の人」の話が あります。

(新約聖書ヨハネによる福音書9章より)

イエスさまと弟子達一向がエルサレムへと向かってゆ く途上で、ひとりの盲人と出会いました。 彼は生まれつき目が見えない人で物乞いをしていまし た。 それを見た弟子達は、イエスさまにこう尋ねました。


「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯 したからですか。この人ですかその両親ですか。」

つまり、彼が盲目として生まれついたのは、彼のせい か、それとも彼の両親のせいか?という質問です。

さて、私たちは弟子たちがイエスさまにしたこの質問か ら、生まれながらの盲目の人の人生の中には、3つの 関係性の断絶があることが分かります。それは神との関係、人(両親)との関係、そして自分自身との関係の断絶です。

生まれつき盲人である自分。それは彼にとって不条理 な現実だった。なぜ自分は生まれながらに盲目なの か?。。。神はなぜそれをお許しになったのか?。。。 人(両親)はなぜ?。。。自分はなぜ?。。。という出口 のない問いがあった。そしてその問いの先にあるのは、 絶望的な悲しみだった。その悲しみは必ず Hate や Curse を産み出します。彼の人生には、そういった関係性の断絶があった。

また彼の心には Fear があった。Fear とは、自分は「愛されているのかどうか」という、人がその心に安心 を得るために必要な、人としての根源的な問いでした。 自分は神から、また人(両親)から愛されているのだろ うか?また自分はそれ(愛される存在)に値するだけの 人間なのだろうか?そういう Fear があった。

そしてもし、それが満たされなければ、それは結局神 に対する、また人に対する、そして自分に対する Hate や Curse になってゆく。それは人のアイデンティティを 破壊します。

それはまさしく欠けたお皿のようだ。でも盲目の彼一人 がそうではない。私たちは欠けたお皿のように、一人 一人に、欠けがあり、弱さがある。

みなそうだろう。誰一人完璧な人間などこの世にいな いのだから。しかし往々にして人は自分が欠けた存在 であることに気がつかない。また気がつこうとしない。 見ようとしない。その「欠け」は放置した分だけ、その人の心の中に山積されてゆく。


そしてその欠けた皿、割れた皿は、人を傷つけ、自分 自身をも傷つけてゆく。 欠けた、割れたお皿によって出来た塔は、それを表し ている。

だからイエスさまは彼にこう答えられた。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。

それは神のわざがこの人に現れるためです。」と。

つまりこの人が生まれつき盲目なのは、彼のせいでも ない、彼の両親のせいでもない、神のわざが、その栄 光が彼の上に現されるためなんだ、と言いました。 その言葉は、この世界に居場所もなく、暗闇の中を生 きていた彼の中に、一条の光を射し込みました。その 言葉に「いのち」があったからです。

レナード・コーエン (クリスチャン・シンガーソングライター)

「どんなものにも欠けがある。だから、そこから光が差し込むのだ」

とあるように、もし私たちに欠けや弱さがなければ、ま た、そんなものは自分にはないと思っていたら、光の素 晴らしさも、その明るさも分からないだろう。 実際、私たちは弱さがある、欠けがある、みな不完全 な存在だ。だから神さまは、そんな私たちに、この世の 光であるイエスさまを送ってくださった。私たちがこの世 の闇ではなく、光の中を歩むために。

そして生まれながらに盲目であった彼は、イエスさまと 出会い、イエスさまに癒されて目が見えるようになった。 そしてその喜びを伝える者へと変えられていった。 私たちも同様です。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してや みの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネによる福音書 8章12節)

私たち一人一人はイエス・キリストによって、神さまと関 係回復をし、一人一人が神さまによって創造された「神 の子」としてのアイデンティティを回復してゆく。 それはまるで金継ぎされたお皿のようだ。元は欠けた、 割れた皿であるにも関わらず、それが一つ一つ丁寧に 接合され、一つとなり、その上に金が蒔かれることによ って、オリジナルよりも美しいものへと変えられてゆく。 それはまさしく、キリストに出会い、キリストによって変えられた人の姿そのままである。

また、キリストによって変えられた私たち一人一人が、 手と手を繋いでゆく時、そこに CHURCH が作られてゆく。 それこそが神、人、自分との関係回復の姿である。 それがこのアートワークの中に示されているテーマで ある。


例えば中央の生け花は「いのち」を表している。いのち の象徴は「イエス・キリスト」である。周りの金継ぎされ たお皿は、イエスによって神と人と自分との関係回復 をした人々の姿であり、繋がったお皿は、そのコミュニ ティである。それこそが CHURCH の姿であり、そこには 愛と調和がある。

なぜそんなことが可能なのか?それは聖書が語ってい るように、イエスご自身が「いのち」であり「愛」であるか らだ。イエスご自身が、私たちを愛するその愛によって、 十字架にかかり、その尊い血を流されて、ご自分のい のちを捨てたことによって、私たちに「いのち」が与えら れたからである。

だからもし私たちが、イエスと共に歩むことをその人生 において選択するならば、私たちの心の内に、まことの 「いのち」が与えられるのである。それが聖書の約束だ からである。

そしてそのいのちはイエス・キリストを通して、天より与 えられる神さまからの恵みである。青いキルトと無数の鶴たちがそれを表している。それは恵みの雨のごとく、 私たちに降り注いでいる神の愛である。



確かにこの地上には、多くの悲しみや怒りがある。社 会に蔓延している人々の分裂、殺人、またテロという行 為は、Hate, Curse, Fear が生み出すものである。それ らは人を傷つけ、また自分も傷つける。

だから私たちは宣言する。私たちはイエス・キリストに よって、神と人と自分との関係の回復を選択する者で あり、「いのちとの繋がり」の中に生きる者となること を。

全ての人がキリストと出会い、その人生が変えられて、 喜びと共に生きる者に変えられてゆくことを祈りとして。

セクション2のアートワークとその解説


セクション2では、神があなたの人生にしてくださったこ との恵みや感謝を分かち合うための巨大なテスティモ ニーボードを用意しました。一人一人がキリストと出会 い、その人生がいかに祝福へと変えられていったのか、 それを自分の国の言語、または好きな言語で和紙のカ ードに言葉を綴り、ボードに貼り付けます。

神さまがあなたの人生にしてくださった恵みや感謝を 分かち合いましょう。また、今日の金継ぎアートワーク を通して感じた感想でも構いません。 証を書いてくださった方は、カラフルな糸でご自分の金 継ぎラインをボードに表現してみましょう。その一本一 本が、神さまが私たちの人生に関わってくださったこと の恵みの表現だからです。

自分の証を書いても良し、また人の証を読むも良し。 ご自分の証を分かち合うだけではなく、ぜひ他の方の 証にも目を止めてみましょう。なぜならそこには、主の 恵みと、新たな出会いがあるからです。。。

セクション3のアートワークとその解説


私たちが住んでいるオークランドという街が、多くの民 族から成る移民の街であり、多民族、多文化の街であ りますが、先日のクライストチャーチにおける移民ヘイ トによるテロ行為に見るように、その中には多くの問題 も含まれていす。しかしマイランギベイ教会がマルチ カルチュラルチャーであるように、私たちはあらゆる 民族や文化や言語の違を越えて、主にあって一つで あるということ、Unity in Christ であるという意味を込 て、一つのアートを創作たいと思います。

金継ぎのモチーフを描いたカラフルなステッカーがあり ますので、それにご自分の名前、もしくは出身地を書い てください。名前は私たちのアイデンティティの表れで あり、出身地を書くことは、このオークランドが多民族、 多文化の街であることの表れであります。どちらでも結 構です。ここで表現したいことは、生まれも名前も個性 も文化も違う私たち一人一人が、その違いがありなが らも「神の子」として、共に主にあって手に手を取って一 つにつながっているということ。それこそが CHURCH の 姿であり、Unity だからです。つながりを作りま しょ


ヨハネによる福音書9章

またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られ た。 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。

「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯 したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

イエスは答えられた。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われ るためです。わたしたちは、わたしを遣わした方の わざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、

わたしは世の光です。」

イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そ のつばきで泥を作られた。

そしてその泥を盲人の目に 塗って言われた。 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者) の池で洗いなさい。」 そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるように なって、帰って行った。


近所の人たちや、前に彼が こじきをしていたのを見ていた人たちが言った。 「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」 ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほか の人は、「そうではない。ただその人に似ているだけ だ。」と言った。

当人は、「私がその人です。」と言った。そこで、彼 らは言った。「それでは、あなたの目はどのようにし てあいたのですか。」 彼は答えた。「イエスという方が、泥を作って、私の 目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい。』と 私に言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」

また彼らは彼に言った。「その人はどこにいるのですか。」

彼は「私は知りません。」と言った。

彼らは、前に盲目であったその人を、パリサイ人たち のところに連れて行った。 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたの は、安息日であった。

こういうわけでもう一度、パリ サイ人も彼に、どのようにして見えるようになったか を尋ねた。

彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださっ て、私が洗いました。私はいま見えるのです。」

すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神 から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と 言った。

しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どう してこのようなしるしを行なうことができよう。」そ して、彼らの間に、分裂が起こった。 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。「あの人が目 をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているの か。」彼は言った。「あの方は預言者です。」

しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの 人について、彼が盲目であったが見えるようになった ということを信ぜず、ついにその両親を呼び出して、 尋ねて言った。

「この人はあなたがたの息子で、生まれつき盲目だっ たとあなたがたが言っている人ですか。それでは、ど うしていま見えるのですか。」

そこで両親は答えた。「私たちは、これが私たちの息 子で、生まれつき盲目だったことを知っています。 し かし、どのようにしていま見えるのかは知りません。 また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれ に聞いてください。あれはもうおとなです。自分のこ とは自分で話すでしょう。」

彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたか らであった。すでにユダヤ人たちは、イエスをキリス トであると告白する者があれば、その者を会堂から追 放すると決めていたからである。

そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。あ れに聞いてください。」と言ったのである。

そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して 言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が 罪人であることを知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、私は知りませ ん。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であ ったのに、今は見えるということです。」 そこで彼らは言った。「あの人はおまえに何をしたの か。どのようにしてその目をあけたのか。」

彼は答えた。「もうお話ししたのですが、あなたがた は聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとす るのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか。」 彼らは彼をののしって言った。「おまえもあの者の弟 子だ。しかし私たちはモーセの弟子だ。 私たちは、神がモーセにお話しになったことは知っている。しかし、あの者については、どこから来たのか知らないのだ。」

彼は答えて言った。「これは、驚きました。あなたが たは、あの方がどこから来られたのか、ご存じないと 言う。しかし、あの方は私の目をおあけになったので す。神は、罪人の言うことはお聞きになりません。し かし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、 神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは 知っています。


盲目に生まれついた者の目をあけた 者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。 もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何 もできないはずです。」 彼らは答えて言った。「おまえは全く罪の中に生まれ ていながら、私たちを教えるのか。」そして、彼を外 に追い出した。

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つ け出して言われた。

「あなたは人の子を信じますか。」 その人は答えた。

「主よ。その方はどなたでしょうか。 私がその方を信じることができますように。」 イエスは彼に言われた。

「あなたはその方を見たので す。あなたと話しているのがそれです。」 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのため にこの世に来ました。それは、目の見えない者が見え るようになり、見える者が盲目となるためです。」 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このこ とを聞いて、イエスに言った。

「私たちも盲目なのですか。」

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目で あったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

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