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World Flag and farmに見るグレートリセットへの道筋と、神の前に富まない者

更新日:2023年9月6日


”The World frag and farm / Yukinori Yanagi 1990"


上の写真は以前私のブログでも取り上げたことがあるが、日本の現代アーティストである柳幸典氏の”The World frag and farm"という作品である。この作品は世界各国の国旗や貨幣など、その国のシンボルを、各種色のついた砂を使ってプラスチックの箱の中に描いたのち、それを壁に掛け、国と国の箱をプラスチックチューブで繋ぎ、その中に生きたアリを放つ。そうするとアリが移動するたびに、国旗や貨幣はアリの通った道筋に沿ってヒビが入ったようになり、やがて分断され、カタチを変えてゆく。そしてアリたちは、そこからまた新たな場所へと向かってゆく。最終的には下の写真のように、崩れ落ちた国旗の砂がひとところに集まって、秩序のないカオスな色やカタチになってゆく。非常に多彩なメタファーを喚起させる作品である。

貨幣のパターン(下)

柳幸典:インタビュー動画


『グレートリセット』は、よくノアの方舟に例えられる。確かにそれはサタンによる人為的なノアの方舟政策であり、全てを押し流す天よりの洪水も、彼らによる自作自演のものとなるが、そのプロセスは、洪水のイメージよりも、このWorld flag and farm のイメージの方が、より近いものがあると私は感じている。


なぜなら彼ら『超自由主義的優生思想』を持った『持てる1%の者たち』は、この先、自らが独占保有している有り余るほどの食糧(畑と種)と食用動物(家畜)を自分たちの方舟に載せ、『グレートリセット』 という名の『洪水(ワクチンによるプランデミック/計画的戦争/計画的食糧難)』を自作自演することによって、地上の民を『押し流す(人口削減)』ことがその目的であり、残った者たちにおいても、デジタル化された全体主義的管理システムによって統制を図りながら、自らを神の座に置いた人工的な『エセミレニアム』をこの地上に造りたいのだろうか。


そんなグレートリセットを推し進めるにあたって、まず必要なのは『分断』と『解体』のプロセスである。


『持てる1%』の者たちは、今回計画されたパンデミックを通して、またロシア・ウクライナ戦争を通して、そしてその先の計画的な食糧危機のシナリオを通して、現在『分断』と『解体』のプロセスを行っているように見える。


すでに日本とかアメリカとか中国とか、あらゆる国の枠組みを超えて、すべてがインターネットのようにつながったグローバリズムの世界の中で、彼らサタンの第3の誘惑に飛び乗った者たちは、この作品のアリのように、自らの欲と保身のために、その国の歴史や文化が創り上げてきたあらゆる障壁を、その資本と権力によって切り崩し『解体』しながら、休むことなく動き続けている。


今回のコロナにおいても、彼らの流す一方的な偽りやプロパガンダによって、人々は扇動され、恐れと不安の中で痛みを負い、その結果、元は一つ一つの秩序を持った砂のかたまりたちは、次々に切り崩され、情報統制された世界の中で、真実から分断され、盲従の一途を辿っている。


このように2020年から始まったワクチン攻勢によって、家族や仲間や共同体が分断され、人と社会、そして人と国との関係性が壊され、それまで培ってきた文化や歴史、そこで生きる人々の生活が容易に踏みにじられ、解体され、記号化されてゆくと共に、現在の計画的戦争や、その先にある計画的食糧難へと向かって、その黒ずんだ色の不自然かつ歪んだ砂のカタチは『グレートリセット』後の新たなセカイのカタチとして、作品の中に浮かび上がっている。


しかしこれらはすべて、私たちの創造主なる神さまがなさることの人為的な真似事でしかない。


サタンは創造主なる神さまのように、無から有を造りだすことができない有限の存在なので、神さまによって造られたものを盗んだり、だましたり、殺したりしながら、神さまの愛する被造物(人間、動物、植物)を自分の都合の良いものに造り変え、この地上に永遠なる神の国の代わりに、有限なるサタンの国を築こうとしているが、そんなものには『命』はないからだ。


そうではなくて神は、かかる日にキリストの花嫁である教会を天に引き上げて『携挙』(ノアの方舟が雛形)の恵みに与らせ、その代わりにこの地上に神の怒りの降り注ぎとして(ノアの洪水を雛形とした)『7年間の艱難期』を与えられる。そして最終的にはエデンの園の再来とも言うべきキリストの統治する神の王国である『ミレニアム』を、この地上に完成させるのだ。それは1000年後のハルマゲドンと最後の裁きの時を得て『新しいエルサレム』へと継承され『永遠の御国』となってゆくのである。


なんと言う壮大なストーリーであろう。サタンが思い描くようなチープなストーリーとは大違いである。だからこそ私たちは、主にある喜びの世界を生きる者でありたいと思う。


なぜならルカによる福音書12章16節から21節のたとえ話にあるように、私たちは自分の欲と保身のために倉に蓄える者よりも、神の前に富む者でありたいと思っているからだ。


それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」



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