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  • JOJI

キリスト者の創作表現について考える

Updated: Mar 14, 2022


聖書の記述によれば、4000年前、信仰の父アブラハムは、イスラエルの最南端にある街、ネゲブの砂漠地帯に一本の柳の木を植えた。


その地には異邦人であるペリシテ人が住んでいて、柳の木はそのペリシテ人の王であるアビメレクとの和平協定を記念して植えられたものであった。


なぜ遊牧民の一族あるアブラハムが、異邦人であるペリシテ人の王と和平協定を結ばなければならなかったのかと言えば、それはかつてこの土地の近郊に住んでいたアブラハムが、この地に井戸を掘ったことがあった。そしてその井戸は豊かな水をもたらした。


しかしそれが砂漠地帯における貴重な水資源をめぐる争いとなり、結果、ペリシテ人に井戸が奪われるという事があった。その争いに終止符を打つために、アブラハムはこの地の王であるアビメレクと和平協定を結び、その記念として木を植えた。その植えられた木が、上の写真にもある柳の木であった。創世記21章に、アブラハムはその所で永遠の神、主の御名によって祈ったとある。主に祈ること。いかなる状況にあろうとも、アブラハムにとって、それは最も大切なことであった。なぜなら真の平和とは、人の力によってではなく、主の御力によってもたらされるものだからである。


しかしここで疑問がある。なぜアブラハムは、たくさんの木の中から、あえて柳の木を選び、それを和平協定の記念に植えたのだろうか?


元々この柳の木は「ギョリュウ」といって、イスラエルに行くと、どこでも見られるポピュラーな木だ。年間を通じて緑の絶えない常緑樹である。成長すればその高さは10メートルほどになり、荒涼とした砂漠地帯においても、遠くからよく見えるので旅人たちにとって良い目印となった。


またその根は地中深くに延びるため、水の少ない砂漠地帯に適した木であり、その枝と葉は、砂漠地帯に木陰を作ることから、通行人や羊を連れた遊牧民たちが暑い日差しを避けるため、柳の木の下は腰を下ろして休める良い休憩場所となった。


しかもその木陰は冷んやりとして心地良く、旅の疲れを癒し、人々に安らぎを与えた。なぜかと言えば、柳の葉から滲み出る微量の塩の結晶が、夜になると大気中の水分を吸集し、塩辛い水滴を作り、朝が来ると太陽の光によって、吸収した水分が蒸発するので、周りの空気が冷やされて、心地の良い涼しさが保たれた。夏の日に行う「打ち水」の作用と同じである。


また柳の木から生成される塩、その塩は聖書の中で、神さまとの信頼関係、信仰心を表わすシンボルとして用いられている。だから聖書の中の例え話にはよく塩が登場する。塩は食物の腐敗を防ぎ、それらを清く保つ力を持っているからだ。


だからアブラハムは柳の木を選んだのだろう。なぜなら柳の木が作り出す木陰の安らぎは、人に神さまの御手の中にあることの安らぎを想起させ、そこから生成される塩は、神さまとの全き信頼関係を想起させるからだ。


そしてその想いは、かつての楽園であり、完全なる安住の地として、人が神と共に住う場所であった、エデンの園を想起させるものであったのではないか。そして人々はそこに懐かしさにも似た安らぎを覚えたのではないだろうか。


さらに、そこには柳の木だけではなく、アブラハムが掘った井戸があった事も忘れてはならない。その井戸によって、その地は砂漠地帯でありながらも、命があふれる場所となったからだ。つまりアブラハムは、べエル・シェバの地において、かつてのエデンの園を想起させるような、世界最小サイズの庭園を作ったのである。


だからその場所(べエル・シェバ)は、息子であるイサクが食べ物がなくなって飢饉に遭った際に訪れた場所であり、預言者エリヤが悪女イゼベルから逃れて、死を覚悟した時に訪れた場所であり、またさらには、荒野で死にかけていたハガルとイシュマエルの命を救った場所でもあった。


このように聖書の中において、人が人生の危機やその分岐点に直面した時、べエル・シェバを訪れていることが分かるだろう。


ではなぜ彼らはそこを訪れたのか? それは、その中に「命」を感じていたからだと、私は思う。なぜなら人はその人生の危機において、またその岐路において、必然的に、また無意識的に、豊かな命を感じる方向へと導かれるからだ。


このようにアブラハムは、たった一つの井戸と、一本の木によって「命の木と命の水が流れる場所」であるエデンの園を、当時の旧約時代の人々に想起させるものを作り上げたのだ。


さらにそれは、エデンの園へと人々を導くだけではなく、より普遍的な意味において、決して絶えることのない命の水を与えてくださる方をも私たちの心に想起させる。その方は私たちの罪のために木に掛けられ、ご自身の命の代わりに私たちの罪を赦し、神と和解させ、永遠の命を与えてくださったお方、イエス・キリストである。


アブラハムがこれを和平のシンボルとして設置した理由がここにあるのだろう。なぜなら

エデンの園は、争いのない平和の園であり、神と人とが共に生きる安住の地であったからだ。また主イエス・キリストこそが、究極的な意味で、真の平和を私たちに与えてくださるお方だからである。

そしてこの一つの井戸と、一本の柳の木という簡潔さの中にも、私はそのデザインの美しさを感じている。それは利休の「朝顔」の逸話を思い出すからだ。そしてそこに侘び寂びの美を感じている。


それはある意味、ヘブル人の手紙にあるように、信仰について語っているものでもあるだろう。それは目に見えないものを確信させ、目に見えないものを保証するものであるからだ。つまりアブラハムは、たった一つの井戸と、たった一本の柳の木を通して、そこに当時の人々に対してエデンの園を表現し、またその向こう側には、より普遍的な意味においてキリストが見えるという二重のメッセージ性が、このべエル・シェバにおけるアブラハムの創作には存在している。しかもそこには侘び寂び的な、決して主張しすぎない簡素な美感までが漂っている。なんということだ!!


この終わりの時代にあって私たちキリスト者は、この世の人々に平安を与え、争いを鎮め、目に見える世界に囚われずに、かえって目に見えない永遠なる神を想起させるような、さらにはその向こう側にキリストを感じさせるような「何か」を求めている。


それが説教であれ、歌であれ、音楽であれ、創作物であれ、劇であれ、絵画であれ、写真であれ、その表現のために、祈りながら、喜びと共に、今日も歩んでいる。


さあ、時は来た。

共に何かをクリエイトしよう!!















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